談話室ゆづき 宗教関連投稿(2006年分)
4311 夢窓疎石、鎌倉幕府崩壊に立ち会う maru阿弥 03/23 15:21
夢窓疎石が、鎌倉幕府崩壊のおり鎌倉と甲斐の恵林寺(夢窓疎石・開山)を行き来しておられたそうです。そして、逃げ惑う鎌倉武士達を禅仏教の道力によって多数、助け出されたことが伝えられています。
同じように河野通盛も、時宗遊行寺の遊行上人や鎌倉・建長寺の南山士雲によって、助けられたことが伝えられています。
夢窓疎石も鎌倉の地獄の中、多くの武士を救われた。当時、京都から鎌倉まで多くの禅寺が創建されはじめていたころですが、それらが多くの鎌倉武士を救出し たであろうこと、また、河野通盛も、父・通有以来、禅を学ばれていたであろう、そして、その禅の縁が通盛を助けたであろうことなど、夢窓疎石の一事からも 見て取る事ができまする。
そして、鎌倉幕府崩壊のおりは、時宗と禅宗が非常に盛んになりつつある時期とも重って、通盛の命を救った両宗派の不思議を感じさせられます。
この、両宗派の道力なくして、湯月城は成り立たなかったのであります。
4329 河野通盛、鎌倉へ落ちる maru阿弥 03/28 10:28
夢窓疎石の鎌倉武士救出を考えていますと、河野通盛はやはり、鎌倉へ向かったであろうと思われてきます。
鎌倉武士は、京都が陥落しても鎌倉を防衛する義務が有りますから、義務を放棄して九州へ向かうとは思われません。特に通久からの系統は鎌倉・北条氏とは一 身同体のような間柄。通盛も最後まで鎌倉・北条氏の援護に回ったと思われます。早々の戦線離脱は河野氏の性格から考えにくい。
河野氏の歴史は、不器用な位筋を通していますから、負け戦となっても鎌倉を見捨てたりはしないでしよう。
この不器用さがあったからこそ、高氏も通盛に声をかけたと思われます。早々と戦線離脱をするものには、いくら名門といえども声はかけない。いざと言う時に 頼りになりませんから。
河野氏記録の、遊行寺へ行って建長寺へ行ったと言うのがもっとも、自然と思われます。
鎌倉の建長寺へ入れば、あとは禅宗ルートを使い、九州へは自由に移動可能となります。
4330 元弘三年から建武三年にかけて! 遊行笑人 03/28 10:59
maru阿弥師の御説は以前より同意の誼也。詳細我家の豫章記・河野家家譜に見る。鎌倉幕府滅亡と其の経緯から、登場人物諸動向 の絡みを相対的に読み解けば、道理が通るお話と感じ入ります。仰せの通りかと!・・・只、今城殿のご意見も聞こえて来そうな胸騒ぎも?!。
4335 通盛が逃げた先 今城 03/29 18:13
昼寝していたらく怖い顔の遊行笑人さんが夢に現れました。何事かと思えば談話室に呼び出し状。と言うわけで出て来ました。まだ 寝ぼけていますが悪しからず。
通盛が逃げた先は九州との説を述べよとの催促と推察しますが、これは石野さんの説でして、私は九州説も一理あると感じているだけです。通盛は九州から出 陣し、九州へ逃げたと考えた方が、納得できる面が沢山あるように思いますが、断定するには石野さんの論拠を伺うことが先決です。
4336 これは、此れは!湯築の桜も見頃かと 遊行笑人 03/29 18:55
今城殿、攝津の国の若さ侍の合戦に興じて居られるものと思って居りました。今日の戦は誠に両雄譲らず、明日に決戦が延びたようで すなぁ!・・・独り言も見挿せて頂いておりますぞ。
本城内もなかなか賑わっており、通盛殿の行方を尋ねるにあたっては、主を抜いては話が進まず御出ましを御待ちしておりました。・・・南朝桜でお叱りを受 け、美濃・・いや・身の・・縮まる思いなれば、せめて勝岡の御古寺(今は別所西方寺)薄墨の桜の咲く日を待っております。
4337 西方寺は西法寺と訂正 遊行笑人 03/29 19:01
法(のり)の一字方向間違いでした! 御容赦
4342 薄墨櫻も間も無く咲きますね 今城 03/30 13:26
西法寺の薄墨櫻も間も無く咲きますね。西法寺のHPでは4月1日開花と予想しています。1日・2日には行けませんが、3日には 何とか都合をつけて訪問する積もりです。
なお、私の投稿が何故かダブリました。削除しました。遊行笑人さんの後に勝手に出たのは不思議です。
本題に関係ない書き込み失礼。
4344 根尾谷の薄墨桜 mino阿弥 03/30 14:28
美濃の根尾谷にも薄墨桜(岐阜県本巣郡根尾村)があり、こちらでは有名です。脇屋義助が拠った根尾谷でもあり継体天皇の伝承もあ ります。樹齢1500余年の巨木です。
4346 西法寺と勝賀城 今城 03/30 17:04
根尾谷の薄墨櫻は全国的に有名ですね。西法寺の薄墨櫻の初代は天平の昔天武天皇のころから800年続き、2代目も長く咲き続け たのですが、平成6年の渇水で枯れ、現在3代目です。薄墨櫻はあちこちにありますが、品種はそれぞれ異なり、西法寺の薄墨櫻は世界中にここしかありませ ん。西法寺には更に西法寺櫻と新西法寺櫻と自然交配で生まれた新種が2つあり、これらもこの寺だけに存在する品種です。
西法寺は元は裏の勝岡山の頂上付近にあった古い寺で、相当な大寺だったようです。勝岡山は昔は勝賀山と言い、勝賀城がありました。この城は河野氏の狼煙連絡網のキーになる城で、高縄山を見通せる位置にあります。そこで高縄山の狼煙を勝賀城で受け、横山城や湯築城へ送る重要な城でした。というわけで河野氏 の狼煙連絡網の要が高縄山、その南側のキーに当たるのが勝賀城でした。
西法寺及びそこの薄墨櫻については西法寺のサイトをご覧下さい。URLは、
http://user.shikoku.ne.jp/usuzumi/index.htmlまた主題から外れた書き込みで済みません。
4348 土佐の国窪川郷の勝賀野氏は? 遊行笑人 03/30 18:42
今城殿、窪川勝賀野城は伊予河野氏の勝賀野氏が中世・戦国時代の城主也。家紋は隅きり折敷三文字です!・・・河野氏を先祖とする 東氏・西氏・志和氏の家々在り・・勝賀野氏は西氏の一族。・・・中村一条家にも仕えていた時代もあり。・・・永正・天文年代の流の内には一条と津野両氏の 仁井田合戦も有名な戦で歴史を残しております。窪川郷は福良氏・難波氏やの伊予の家筋を誇る一族は何故に土着しているのか?・・・探れば探るほどのめり込 みそうな土地柄です。
伊予勝岡・・勝賀城には、何方が勢力を配して居られたのでしょうか?・・興味津々
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