談話室ゆづき 宗教関連投稿(2008年分)
6526 大蟲全岑 mino阿弥 06/08 17:06
千葉の研究者の方から教えて頂きましたが
伊予に宗昌寺、大通寺を開山したのは、
大蟲全岑(1411年示寂・だいちゅうぜんしん)であるとのことです。大蟲宗岑(1600年示寂・だいちゅうそうしん)とは別人であるとのことです。
資料は「五山禅僧伝記集成」玉村竹二著
「延宝伝燈録」の誤りだそうです。
maru阿弥師、教えてください。
6531 どうもわかりません mino阿弥 06/09 11:00
大蟲禅師は、松山市によれば貞治元年(1362年)7月19日、但馬の大明寺で
死去とされています。
県指定文化財である、石造宝キョウ印塔は、1364年大蟲禅師の三回忌(1364)に
木像とともに宗昌禅尼が建立したものとあります。
卒年1411年と、1362年では、相当違います。
峰翁祖一の1357年卒、月菴宗光の1389年卒から考えても、
大蟲禅師が大明寺で死去したとする1362年卒の方が、正しいと思いますが?
6532 困った、困った、大蟲全岑 maru阿弥 06/09 13:08
悩まれていますね。
大蟲全岑は間違いと思います。
これは、前回フォーラム交流会で使用の日本禅宗史・資料にも大蟲全岑と記されており、大蟲宗岑と訂正した記憶があります。
大蟲宗岑の記録を伝えている宗昌寺は黄檗宗 、大通寺は曹洞宗になっていますが、他宗派の、臨済宗時代の1300年代の記録は正確に伝えております。「五山禅僧伝記集成」玉村竹二著
「延宝伝燈録」
とは、いつ頃の記録でありましようか。勉強不足で知りませんでした。関東の方にも大蟲全岑と同性同名の僧がおられることは知っておりましたが、時代が200年以上も後の方で、伊予の歴史解明にはあまり関連が無いようでした ので、言及はしていません。
峰翁祖一の弟子や同門の宗派は、宗の一字を重んじており、代々宗を名乗る方が多く居られます。
大蟲宗岑・月菴宗光は言うにおよばず、
宗峰妙超・言外宗忠・授翁宗弼・・・・華叟宗曇(一休さんの師)・一休宗純などなど、みなさん宗の字を重んじておられます。
大蟲宗岑が但馬の大明寺で1362年に亡くなったのも間違いです。
但馬の大明寺は、1367年に伊予を避難した月菴宗光が開かれた寺で、
この寺で亡くなったのは再び伊予を離れた、1389年の月菴宗光であります。
1362年には、但馬の大明寺は存在しておらず、当の大蟲宗岑は衰弱しており、
但馬へ移動させる事は無理であります。この時期河野郷に大蟲宗岑が居なかったら、誰が月菴宗光に法を伝えるのでありましょう。
6533 ご参考までに 海遊庵主 06/09 14:22
宗昌寺(風早郡八反地・集福山)のこと。河野親経(40代・河野新太夫・次ぎに氏長者也)の弟北条六郎正岡信濃守経孝の建立・・ 開祖は大虫禅師と云う。此郷にて16ヶ村所領の義古き記禄に残されて居ります。今は(江戸時代か?)黄檗山の流也と。
重ねて、大通寺のことは原文にてご案内『風早郡下難波村に在り、虚空像を安置、大暁禅師所営也と。伽藍七堂・置子院七舎を為し、河野通朝香火院、禅師受業 宗虚門人、博学多識太祖述禅門、又有危岑(みね)腰折れと白く。峰は愕隆降峻、中央湾僂形を為し、因りて名を為すと記す
宗昌寺縁起に鑑みて、この経孝殿を我家の系図で辿れば、親経前述の河野新太夫なれば、其の兄弟に康孝と名乗る弟あり・・その子にして・・経孝正岡氏の祖と 云う者在り・・通経の弟では無くて孫也、北条太郎と申す也。正しく高縄山の麓・風早郡北条の者ならんか。・・擦れば時代照合(一世代降るは必然)も、寺伝 の詳しい歴史も解明出きろうかと。少なくとも相当以前の事ゆえ庵主知らずと。
6534 ありがとうございます mino阿弥 06/09 16:23
さっそくのご教示ありがとうございます。
「五山禅僧伝記集成」は、玉村竹二氏著とあり
「世阿弥と月菴宗光」の天野文雄氏も論文の中で、この書を引用されています。
「延宝伝燈録」は、はっきりわかりません。
無文禅師についても書かれていて多々引用されているようです。
ご指摘のように法嗣であれば「宗」の通字を使用することは、自然であるように
思われます。
思いもかけなかった指摘であり、驚きました。
当然、大蟲全岑が、誤りであると考えられますが。
大蟲禅師の卒年は、1362年かと思っていましたが、実際のところ生没年は
おわかりでしょうか?
但馬の大明寺で没したという記事は、月菴の誤伝であると思いますが
どこから、そのような年号が出てきたり、そのような記事が掲載されて
しまったのでしょうか?ぜひ、この疑問に決着をつけておいて頂きたいと思います。
6536 弧峰覚明から大蟲宗岑へ maru阿弥 06/09 19:37
大蟲禅師の卒年は、1362年で間違い無いと思います。
月菴宗光は、1361年に伊予の大蟲宗岑のもとへ来られたようで、亡くなられるぎりぎりに
対面されています。
月菴宗光の師、峰翁祖一は1357年に関市の大通寺で亡くなられたようですが、
そのあと月菴宗光は、すぐに大蟲宗岑を訪ねていません。
なぜ、すぐに伊予へ来られなかったのか?どこへ行かれていたかといいますと、問題の嫩桂正栄の兄弟弟子、弧峰覚明を訪ねておられます。
その弧峰覚明も1361年に亡くなられ、伊予の大蟲宗岑を訪ねています。
大蟲宗岑に、どこをぶらぶらしていたのかと、叱られた事が伝わっております。この弧峰覚明を訪ねていた事は非常に問題で、正平の一統の時の南朝の宗教的リーダーを訪ねている訳です。
この弧峰覚明との接触を考えますと、月菴宗光は伊予に来る前にすでに、南朝の人的ネットワークを確保していたのではないかと考えられます。
後の伊予河野氏存亡の危機のおり、南朝へのスムーズな転換には、月菴宗光が影で大きく貢献したのではないか?この大蟲宗岑が亡くなられる1362年、河野氏にとっても非常に意味深い年度であったと思えるのですが。
6538 「月菴和尚行実」 mino阿弥 06/10 10:51
天野文雄氏によれば
月菴は、延文三年(1358)出雲雲樹寺の狐峰覚明に参じて「五位要訣」を授けられている。その後、月菴は、総持寺の峨山韶碩に参じようとしたが断絶の危 機にあった遠山派の法系維持のため伊予宗昌寺の峰翁祖一(大蟲宗岑の誤りか?)のもとに参じて印可を受け、その後但馬黒川大明寺の開山となった。河野氏と禅僧の関わりを徹底的に研究する必要があると思います。
「五山禅僧伝記集成」には、大通寺文書、宗昌寺文書、大雲山誌稿
五山佛祖宗派、延寶傳燈録を参考にしたと書かれています。
大通寺文書、宗昌寺文書があれば、愛媛県や松山市の県史や市史の
編纂委員の人達が当然目にしていると思います。
にもかかわらず、「大蟲全岑」ではなく、松山市は「大蟲宗岑」としていますから?この文書は、ご存じですか?
県史や市史の史料編などに何らかの記述は、ありませんか?
6541 よく見ましたら mino阿弥 06/10 18:19
大蟲禅師または、大澄禅師としか書かれていません。
「五山禅僧伝記集成」は、応永十八年(1411)七月十九日とています。
松山市は貞治元年(1362)七月十九日。
何かどこかで間違っていると思います。
「大蟲禅師」が1411年まで生存しているとは考えられません。
6542 幽霊かも? maru阿弥 06/10 19:36
「大蟲禅師」が1411年とは不思議です。
その方が、もし宗昌寺、大通寺を開山したとなると、産まれた頃か青年時代に河野宗家の寺を開山したことになり、ちと役が重いように思われますが。
通盛も通朝も心もとない思いがします。
1400年代には伊予の名僧は、中予には現れず、南予に曹洞宗の仲翁守邦が現れるくらいです。大蟲宗岑の亡くなる前年に作られた木造には、1361年と朱銘が残っていますし、
峰翁祖一の木造も、亡くなられる前年の1356年作。
最明寺に残る月菴宗光自賛の書(1380年頃か)には、峯翁、大虫のことが書かれていますが、すでに亡くなられた師を偲んでの書です。よって、1411年の大蟲宗岑とは、幽霊ではなかろうかと思われます。
延寶傳燈録は、水戸黄門の時代の記録のようで何が書かれているか知りませんが、
1411年の大蟲宗岑とは、河野宗家の行く末を心配して迷われた、幽霊ではないでしようか。
6545 「五山禅僧伝記集成」 mino阿弥 06/11 09:51
この書の誤りであると思います。
著者は東大史料編纂所の方だそうですが、きちんとした調査がなされないままに
書かれたようです。
もし、大通寺文書、宗昌寺文書があるとしたら、念のためご確認頂ければと思います。
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