談話室ゆづき 宗教関連投稿(2006年分)
4310 建長寺住持 mino阿弥 03/23 15:07
開山蘭渓道隆(大覚派)十三代南浦紹明(大応派)二十代南山士雲(聖一派)夢窓派としては三十九代青山慈水五十四代春屋妙葩五十 七代古天周誓など。応安の始めから建長寺を主とする大覚派と円覚寺を主とする仏光派の紛争が続いたためか双方とも大火に見舞われた。五代無學祖元(佛光 派)円覚寺開山ー高峰顯日(佛光)ー夢窓祖石(夢窓派)
4312 河野氏とは縁の深い方々ばかりなり maru阿弥 03/23 16:41
建長寺住持を見ていても、色々考えさせられますね。
初代・蘭渓道隆は、時頼・時宗の師匠ですし、
十三代南浦紹明は、河野通有の師匠で、子の通盛にも禅風は伝わっていると思われます。通時の娘・姫だるまにも、おばで通有の妻、阿古道忍に伝わったのも、 南浦紹明の禅風ではないでしょうか。
二十代南山士雲は、通盛の命の恩人。
五十四代春屋妙葩は、通高ゆかりの伊予と安芸の安国寺開山、夢窓祖石の甥です。通高は、この春屋妙葩とも、縁が深いように思われます。
無學祖元は、時宗の師匠で、元冦の難局を乗り切った原動力・日本の恩人。この無學祖元に似た辞世の句を、河野通盛が読んでいたように思います。善応寺で調 べておきます。
皆、河野氏とは縁の深い方々ばかりなり。
4313 土佐の高知の宗安寺も? 遊行笑人 03/23 17:40
両阿弥師にお伝えすべき寺も在り。・・・土佐之友のHP(よいよい写真館)の訪問先に、臨済宗の妙心寺・末寺か?寺在り。写真も 添付・・・縁起も記されているが、鎌倉仏師の仏像の伝承・土佐之古刹の由縁を披露されておられる。参考までにお知らせします。・・・開いて頂き右上に訪問 先の記載有り。・・笑人未だ見えずも親しき友のサイト也。
4314 夢窓疎石様の化身? maru阿弥 03/23 19:13
遊行勝人様、拝見致しました。タヌキ菩薩が迎えて下さり、驚きました。吸江寺とも縁が深いようですから、あのタヌキ様はひょっと して、夢窓疎石様の化身ではなかったのかなどと、思案致しております。土佐と美濃と伊予、夢窓疎石様がタヌキ様に変化して、行ったり来たリの南北朝であ らっしゃいますか?
4316 早速の遊行南無の心なり 遊行笑人 03/23 19:45
真に面影辿る旅は楽しゅう御座る。・・・・平安・鎌倉時代も土佐の平家・流されて源氏の御曹司希義殿も討たれるは真に無念・不憫 なり。・・・遡れば二名嶋伊予と土佐は同国の義。
置き去りには聊か口惜しい限り也!・・・伊豫南部と土佐西部は、既に石野先生のご見識の四国西南歴史文化論業『よど』の領域なれば、今後の我等土佐の越智 姓河野今岡下村一族も力が入りまする。 南無大勝智勝佛
4353 久々に土佐の寺に想いを馳せる 遊行笑人 04/01 13:43
久し振りに土佐の面影の跡を辿る。・・・偶々、禅僧絶海中津なる名僧と同じく、土佐の同郷・義堂周信なる僧に目が止まった!・・ 何れも土佐之国高岡郡津野山村の人也。
先ずは吸江庵(後には吸江寺)は、創建は文保二年(1318年)五月のこと、後醍醐天皇の即位が三月なれば、二ヶ月後のこと也。・・・開基は夢想疎石・・ 国師号を授されたご存知の名僧
・・43歳なり。晩年には京都天竜寺(京都五山・天竜・相国・建仁・東福・万壽なり)の開山となり、齢77歳で入寂と聞く。・・五山文学の双璧と云う義堂 周信と絶海中津は同郷の土佐出自・二人ともに夢想国師に師事して、前者は『空華集』後者は『蕉堅稿』の著書を残すと。
この吸江庵には、春屋妙葩、正陽乾向・・・其の他有名無名の僧の出入りが残されており、雪渓寺(長宗我部元親之墓所在り)の天室、先述の宗安寺の如渕、南 学の史上知名度の高い釈忍性はこの吸江庵の住職で在ったと記す。重ねて説く・・土佐国守護代及び長宗我部氏の尊信と保護を受けたが、長宗我部氏滅亡の後は 衰退の憂き目に遭うも、やがて慶長六年(1601年)、山内一豊公の土佐入国の後、命により湘南和尚が再興・庇護を受けて、南化国師の教えを受けて京都妙 心寺の末寺と為るのです!・・・誠に土佐も見捨てたものでは無かろうかと。 合掌
4356 夢窓派・四天王と細川氏 maru阿弥 04/03 14:26
すごい。土佐は夢窓疎石の聖地でありましたか。夢窓派・四天王の内、3人まで関係しており、2人は土佐の出とは恐れ入りました。 これでは、後醍醐天皇や足利高氏にとっても聖地、南北両朝の信任厚き、夢窓派の牙城であったとは、細川氏が四国統一近くまで達成された勢いの影に夢窓派の 影響もあったか、南北朝の時代の仏教は夢窓派が最も力を持っておられたようです。
4358 山内一豊公は禅宗と・日蓮崇が共に! 遊行笑人 04/03 17:24
maru阿弥師、誠に只今土佐の高知は大河の流れの中・・・博覧会も始まりましたぞ!ドンちゃん騒ぎで御座る。さて、禅の心を敬 うも、一豊公と実弟修理亮康豊殿は前者禅宗・後者は日蓮宗を庇護された(曹洞宗日輪江山真如寺)と(日蓮宗・要法寺)の結果は、祖代々の菩提寺は、尾張の 刈安賀から近江の長濱、遠江の掛川と転々として、土佐に移って入国・最初の寺王は日遠、藩祖の一豊の尊信を受けるも、一豊公は禅宗に凝りて、真如寺を建立 したため、菩提寺と為るも、康豊(幡多郡中村二万石の領主・山内家二代目の忠義公の実父也)殿の時代には、第二世日顕の時代には要法寺を保護して江戸時代 初期から、山内家の菩提を禅宗真如寺と日蓮宗と共に、代々の山内氏の菩提を守り、仏縁を深めるのです。・・・そして私共の直系先祖の河野徳左衛門之子・智 迪なる者が12歳の時・江戸時代末期には、宿毛の里から、文政元年(1818年)この神力山要法寺30世日晴上人について得度し出家・・京都に学び、後、 北総の中村檀林化主・尾張徳川・長生山妙勝寺四十二世、他讃岐徳川の領地・正重山慈雲寺二十世等、最後は京都開法山頂妙寺四十世継いで大光山本圀寺四十二 世律師日詔也。・・・元冶元年十一月二日・・・禁門の変の直後、僧籍46年、示寂58歳にて没すと。
伊予之河野氏の子孫を土佐之国にて繋ぎ、河野氏を名乗り、戦国を潜り抜けて、江戸時代に仏門に帰依して、明治天皇の父君光明天皇に拝謁も叶い、とりわけ皇 后殿下の御意を授かったと聞く我等伊予河野氏の末裔を名乗る一統の者・脈々と受け継ぐは、大通智勝佛の導きに他ならない定めかと!?。・・・其の後、讃岐 之国のこの寺の二十二世は甥子に当る日節上人が務めたとも記す。世が世なれば、笑人も出家坊主に為っていたかとも?・・・身震いがする。 南無!
4359 大通智勝佛の信仰が脈々と受け継がれ maru阿弥 04/03 20:00
遊行様、日蓮宗とは勇ましい。加藤清正・虎退治、日蓮宗の旗印。
また、日蓮様の法華信仰のルーツは比叡山の最澄様、法華教を第一に取り上げられ、最澄様のルーツは聖徳太子様、日本で最初の法華教の国造りを始められる。
その、理想の姿が道後温泉極楽郷、夜の色街ではありません。
大通智勝佛の拠り所も、法華経の世界。まさに、聖徳太子にはじまり、越智氏、河野氏、一柳氏、山内氏、と大通智勝佛の信仰が脈々と受け継がれておられま す。
4360 法華経化城品の諭に従いて 遊行笑人 04/04 09:41
maru阿弥師、笑人・・・悉く大通智勝佛の諭に導かれる侭に、夜を徹して伊予と土佐の面影を辿る。・・・新たな教訓・教示を授 かる。・・・の心持也!
絶海中津なる禅僧の人物を古里土佐之国高岡郡津野山郷に夢中の遊行を通じて、面影を偲び、真に功徳を感じる今朝の心持也。
絶海中津師は建武三年・延元二年(1336年)に上記土佐之国の郷にて生を受け、13歳で臨済宗天竜寺に入り、夢想礎石に師従して、受戒。1368年足利 義満が将軍になった其の時、渡海して中国明の入国・詩僧と親交を結び、太祖洪武帝に召されて詩を賦したと、帰国しては天竜寺等に住し、同郷の義堂周信との 並び、五山文学の双璧を築く。元中九年・明徳三年(1392年)南北朝の統一の時期には、朝鮮国に対する外交文書を起草し、足利義満の明帝への上表の書を 送り、遣明使節派遣等、倭寇の雄躍の時代に東シナ海を越えて外交の絆に功績を残すと知る。
さて、この両禅僧の出自の土佐之国高岡郡津野山郷の古に遊行を試みた挙句、真に不思議な伊予之国との因縁を知る所となる!驚いた。
続いて御披露のこと、何の躊躇もなく、導かれる侭の由縁也・・・真に仏心かと。
土佐之国高岡郡津野の領主・・津野氏は正しく其の先祖を辿れば、津野郷から古代より土佐随一の良港・須崎の湊を制し、葉山から須崎の広範囲に城郭を構えた 豪族也。
其の先祖は平城天皇の御子阿保親王の曽孫・従五位越中守在原経高(つねてか)。延喜十年(910年)庚午、故あって伊予国浮穴郡川上之庄山之内に下向、同 十三年癸酉三月津野村床鍋村に来て住し、同十八年には深山を伐り開きて里と為すと記す。この地を梼原と名付けるのです
この津野氏はその後累々として、土佐の有力豪族として君臨・・・その氏族・家臣は長宗我部氏との戦国時代まで雄を誇るのです。・・・その地こそ、両禅僧を 輩出する土地柄・伊予土佐を結ぶ血筋の所以か?・・・高岡郡窪川仁井田郷・同梼原郷は伊予の国と同祖の領域ではないかと。
歴史は思いの外、広範囲に想いを馳せる事、必定かと!・・・奥が深まる想い也 合掌
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