談話室ゆづき 宗教関連投稿(2008年分)
6032 河野・西園寺・島津・大内・陶を結ぶ曹洞宗ライン maru阿弥 02/04 13:43
河野氏の臨済宗が美濃との深いつながりを伝えている事は、
伊予の臨済宗史を探ると見えて来るが
河野氏の曹洞宗からは、何が見えてくるのか
河野氏の曹洞宗は、薩摩の島津氏ゆかりの寺が総本山
ために、伊予の曹洞宗には島津の十字紋が多く残されている。
島津氏ゆかりの曹洞宗は、西園寺氏の宇和に伊予の本山が置かれている。
また、島津氏ゆかりの曹洞宗は、大内氏や陶氏に伝わり
大内氏や陶氏に伝わった曹洞宗が、河野氏のシンボル寺・大通寺へ伝わった。
河野氏のシンボル寺・大通寺は、それまで美濃ゆかりの臨済宗であったが
1400年代後半、大内・陶氏との縁によってか、曹洞宗に変っている。
各地の曹洞宗の寺は、全て薩摩の島津氏ゆかりの総本山につながる。
1300年代後半から1500年代までの曹洞宗の布教ルートを見ていると
どの国と、どの国が親密であったか見えてきて、面白い。ちなみに、河野氏が最に立て籠った、道後の義安寺は曹洞宗であり
河野氏内部の反毛利派のシンボルとして立て籠ったものと思われる。毛利氏のシンボルは、浄土真宗であり、毛利氏と平行して
伊予に浄土真宗が入り込んでくる。美濃の河野氏が1300年代に浄土真宗と接点を伝えているが、
200年もたってからやっと、伊予に辿り着く事になる。
6033 お久しぶりですね mino阿弥 02/04 17:51
尾張河野九門徒(岐阜県岐南町・昔は尾張の地)が、三河柳堂で親鸞聖人の教化に浴したのは、文暦ニ年(1235)に三河桑子城 (西岡崎駅の近く)で安藤薩摩守が親鸞聖人に説法を乞うとされていますので1300年代ではないと思います。尾張国葉栗郡上門間庄本庄郷河野村の領主河野 通勝の木瀬道場は、文永三年(1266)八月木曽川の洪水により流亡したが蓮如時代に復興され河野惣道場と称されたとあります。すでに1200年代に河野 門徒が居た木曽川中流の両岸、尾張葉栗郡から美濃国羽栗郡・厚見両郡にかけては本願寺教団の枢要な拠点であったことは確実であろうと思います。
(尾張河野門徒は、三河門徒とともに佐渡島に渡り本龍寺を建立し砂金を採り島外に運び出したという説があり本願寺教団の布教活動の資金となったのではない かと思います)
尊卑文脈には、美濃守護代藤崎十郎四郎泰綱の娘が河野弥九郎妻と、また源満政流小島孫五郎重連の娘が河野彦四郎道重妻と記載されており、また藤崎氏には土 岐氏との婚姻関係も見られます。小笠原長清(阿波守護)ー大井十郎行長ー藤崎十郎四郎泰綱ー女子(河野弥九郎妻)という系譜ですから、美濃の河野氏は相当 以前から美濃においても一定の勢力があったのではないかと思われます。
石野弥栄氏の論文に書かれている河野通政の子で河野四郎通信の孫政氏流が美濃河野氏源流であるという説の他にも、美濃においては河野氏の足跡が確実にあっ たのではないかと考えられます。
6034 300年の年月がかかった浄土真宗 maru阿弥 02/05 12:15
mino阿弥様
訂正ありがとうございます。
美濃河野氏の浄土真宗との接点は、1200年代だったですね。
失礼しました。
ということは、伊予河野氏に浄土真宗が辿り着くまでに
300年の年月がかかったことになります。
最近、仕事でかかわった寺が北条鹿島の正面、
JR北条駅のすぐ前に、浄土真宗の大きな寺があり
それも、広島と深い縁があるとつたえてありました。
毛利氏との関係が浮かんできます。
河野氏のシンボル・鹿島の正面に、毛利氏ゆかりの浄土真宗の大寺。
政治的意味合いがよく見えてきます。
そういえば、鹿島城主も本願寺合戦のおり、浄土真宗になったやに。
この時代、一気に浄土真宗が河野郷に入ってきたのでしょう。美濃河野氏の浄土真宗との関連も、解明しなくてはいけない大きな謎ですね。
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