談話室ゆづき 宗教関連投稿(2008年分)
6269 美濃の正法寺 mino阿弥 03/31 15:26
土岐頼康開基
開創時期 文和二年(1353)説があるも不明
開山 嫩桂正栄 (1266~1353) 大医禅師 無本覚心の法嗣
二世 信仲自敬
梅隠祐常 後村上天皇の皇子惟成親王?
三世 懶雲(総亀の法兄)
総亀寿兆 1458年入住
梅南禅初 1461年入住
元承首座 1464年入住
元甫首座 1485年入住
利渉首湊 1469~86入住「梅花無尽蔵」による
春岳寿崇 1504年春蘭寿崇と改名し入住 斎藤妙純弟
東明元杲 1513年入住
守倫 1518年入住何世になるか、はっきりわかりませんが、上記の名前が
かろうじて見られるようです。
正法寺は、「船田の乱」では焼失せず、永禄七年または十年
(1564~1567)織田信長が美濃侵攻の際、焼亡したもよう。
ご参考まで
6271 河野通盛も南朝へ加勢(1342年) maru阿弥 03/31 20:06
開創時期 文和二年1353年、いい時期です。
観応の擾乱対策で、南朝との和睦交渉には適切な時期だと思われます。
河野通盛も、1342年頃から細川対策をにらみ、南朝との協力への動きが見られます。
河野通盛自体、南朝との戦いは真剣ではありません。
幕府に言われた時のみ、戦いのふりをして、ほとんど身内の南朝とは休戦状態です。伊予の南北朝動乱は、戦うふりをした、南北朝休戦時代です。
6277 革手城に正法寺、ゆづき城に宝厳寺 maru阿弥 04/02 09:25
美濃の正法寺によく似た寺が伊予にもあります。
伊予の宝厳寺・一遍、得能ゆかりの宝厳寺、後醍醐天皇ゆかりの時宗寺北朝の牙城とされるゆづき城横に、南朝ゆかりの宝厳寺
北朝の牙城・革手城横に、南朝ゆかりの正法寺建造物の南北朝和睦です。
当時の人々の願いが聞こえて来るようです。
嫩桂正栄は、「延宝伝燈録」「本朝高僧伝」などによれば
文和二年正月二十一日示寂、八十八歳 勅諡大医禅師惟成親王
「系図纂要」後村上天皇皇子 母大蔵卿局、師治朝臣女
文中三年正ノ三品、太宰師、式部卿、元中九年十一ノ薙髪
法名梅陰祐常「古物屋本帝王系図」中務卿、出家、梅陰祐常
「京都御所東山御文庫記録」帝王系図
母 未詳一云大外記 中原師治女
敍三品、任式部卿、元中九年薙髪、名祐常、号梅蔭惟成親王が美濃正法寺に在籍していたという確実な史料は見当たりませんが
法燈国師の法嗣嫩桂正栄が開山であれば、ありうることだと思われます。
尾張、美濃、伊勢三国守護の土岐頼康は、南朝との関わりが深い守護であった
様子が窺われます。
文明十三年秋に雪舟等楊が正法寺で作画
文明七年十月 聖護院道興、専順、宗祇らが連歌の会
一条兼良、宗祇、万里集九、雪舟などが革手城と正法寺を中心に
五山文学僧とともに文芸活動を行う
6291 雪舟の奪い合い maru阿弥 04/04 13:03
雪舟等楊ですか
これまた、細川船と大内船で、雪舟の奪い合いがあったようですが。
細川氏の舟は大内氏に外注されていたといいますから、おもしろいですね。
大内氏が造った細川氏の船は、明に渡る途中で沈む細工がされているとかで、
大内氏お気に入りの雪舟を、細川船に乗せろとか言ったとか言わないとか。
6305 土岐頼康の新時代への布石 maru阿弥 04/07 15:14
美濃の正法寺、1353年開創とありますが、これは大変な時期に法灯派を招かれたと思われます。。
この時期、北朝の天皇だった、初代・二代・三代までが南朝に連れて行かれ、北朝の権威失墜の時期にあたります。
そのうえ、北朝初代天皇だった光厳上皇は、法灯派の弧峰覚明に弟子の礼をとられました。光厳上皇はかつて夢窓疎石に弟子の礼をとられていましたが、夢窓亡 き後、弧峰覚明の弟子となられます。
その弧峰覚明と兄弟弟子の嫩桂正栄を招いたと言う事は、土岐頼康が光厳上皇と似た動きをされたと見えます。
北朝の権威失墜の時期に、南北朝合一を睨み、法灯派の嫩桂正栄を招かれた。
土岐頼康の新時代への布石を打たれたものと思われます。
二条前関白・・三条・・西園寺・・裏築地・・松殿・・
大炊御門・・四条・・菊亭・・花山院・・左少弁・・右少弁・・左中将・・
勘解由次官・・梶井二品親王
光厳上皇が弟子の礼をとった弧峰覚明に月菴宗光が参禅していたと言われますから驚きです。それも伊予へ向う前に。
月菴宗光は、南朝人脈ルートにも通じておられたのでは。
河野通尭を南朝に逃がしたのも、月菴宗光ではないかと思われるぐらいです。
弧峰覚明の弟子であれば、それぐらいの人脈ルートはあったと思われますが。
6310 美濃国諸旧記 mino阿弥 04/08 17:32
「美濃国諸旧記」によれば
「文和二年三月十三日・・美濃国不破郡垂井の宿まで落ち延び給う。
供奉の人々には二条前関白・・三条・・西園寺・・裏築地・・松殿・・
大炊御門・・四条・・菊亭・・花山院・・左少弁・・右少弁・・左中将・・
勘解由次官・・梶井二品親王始めとして武士には義詮卿を大将として
細川相模守清氏、尾張民部少輔、舎弟左京大夫、同左近将監、土岐大膳大夫頼康、
同長山遠江守光明、今川駿河守頼貞、同兵部大輔助時、同左近蔵人、熊谷備中守直鎮
佐々木三郎左衛門秀綱、山内五郎左衛門信詮等以下なり。
垂井の宿に着き給いて長者が家を借りて皇居となし官軍の面々は四辺の在家に宿を
取りて皇居を警護し奉りてありけるがその後又垂井を立ちて池田郡に来り瑞岩寺を皇居となして
おはしましける。其翌年の春、尊氏将軍の上洛せらるる時迄、即ち瑞岩寺に皇居とし給いける・・」
(土岐頼康は、南朝の攻勢を避け、後光巌天皇、公家、足利義詮など北朝勢を揖斐川町の瑞巌寺に
一時避難滞在させた。こんな忙しい時期ですが?)
6311 足利を倒して天下を maru阿弥 04/08 18:04
そうですね。かなり忙しいですね。
法灯派の嫩桂正栄を招いたのは、もっと前、1340年代かもしれませんね。
河野通盛は、伊予守護をはずされた後、細川頼春の侵攻に対して1342年に南北統一連合で千丈が原に迎え撃っています。予章記では戦ったことしか書かれて なく、南朝に合力したことは削除してありますが。
この時期のすぐ後、1345年頃に美濃から峰翁祖一が河野通朝の師として呼ばれています。
河野通朝の対・細川戦に対する暗黙の南北連合を進めるには、重要な人物だったことでしょう。
北条氏の血縁も伝え、南朝方に組みした北条氏残党も峰翁祖一は納得です。土岐氏は日野氏とならんで、南北朝の動乱の口火を切られていますから、
常に南北合一を考えられて、先手を打たれていたと思いますが。
それができれば、足利を倒して天下も取れますし。
6136 もう少し詳しく教えてください mino阿弥 03/04 14:44
鎌倉から距離をおいたということは、何を意味するのでしょうか?
執権北条(赤橋)守時の母は、北条宗頼女。
土岐氏も「嘉元の乱」では、土岐(蜂屋)氏が、母方北条宗方に味方してと
あり、北条宗方の父は、北条宗頼。
北条守時の祖父にあたる北条(赤橋)義宗は、峰翁祖一の父と推定される。当時、美濃国大円寺は、大徳寺、妙心寺とならび、遠山派として多くの
参禅者を集めたとあります。
大円寺そのものが、著名な寺でもあったようです。
峰翁祖一は、1274生~1357没のようですから、1345年に伊予に渡ったという
ことは70才を越えていたということになります。
大蟲禅師などが、随伴した可能性が大いにあります。
しかし、なぜ、このような高齢になっても伊予に行くという決心をされたの
でしょうか?
河野氏サイドからではなく、大円寺サイドから見た場合
当時、70才以上で遠路四国まで旅するということは、生命を賭して行く覚悟が
なければならなかったのではないでしょうか?
普通に考えれば、法嗣の大蟲禅師を派遣すればすむことです。
峰翁祖一自身は、伊予に骨を埋める覚悟で行かれたと思います。なぜでしょうか?
6150 河野氏の幸運 maru阿弥 03/05 18:47
鎌倉幕府と深いつながりのあった人物は、後醍醐天皇、足利尊氏から遠ざけられたと思います。宗教は政治と密接な関係がありますの で。
後醍醐天皇、足利尊氏ともに重んじられた夢窓疎石は、師が高峰顕日、後醍醐天皇の異母兄弟にあたり、これまた鎌倉を離れ栃木を拠点にされていました。
峰翁祖一の師・南浦紹明も鎌倉を離れ博多を拠点に活動。
鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇、足利尊氏ともに、新政権下では鎌倉幕府とはなるべく縁の薄い人材を求めたと思います。これは、現代でも同じでしょうが。
峰翁祖一が幸運だったのは、師が鎌倉幕府から離れていました。そして、同門に河野通有がいました。ともに禅を学ばれたよしですが、河野氏も運が良かった。 河野氏の禅はなぜか、鎌倉の禅ではありません。京の禅、公家の禅、九条道家が開創の禅、東福寺派の禅でした。
後に、河野通盛が鎌倉で時宗に身を寄せ、これも運が良かった。時宗は後醍醐天皇と親密。そして天皇と親密な時宗の紹介で赴いた禅寺で、これまた河野氏は運 が良かった。
京の禅の南山士雲に出会う。南山士雲は公家と縁の深い東福寺派ですし、河野氏の禅もずっと東福寺派でありました。天皇政権下で河野通盛の安らげる場所に辿 り着けた訳です。
後に、この時の河野一族の幸運の感謝を込めて、善応寺が建てられます。
しかし、息子の寺は、なぜか東福寺派ではなくなります。
6151 表記の経緯を良く知り得る人物は? 海遊庵主 03/06 12:23
maru阿弥師、しばらく拝見しておりました。これらの経緯は、自伝の豫章記の内に道理の通じる記述も見うけられるのですが、又 ぞやお目に掛る際にお目を通して頂こうかと。
但し、ご参考までに、この経緯に深く係わりを最初から知り得る人物は、親経の代に分かった康孝の家筋の正岡氏の祖・経孝(北条太夫)の子孫の久万氏を名乗 る家柄の者・・通賢(久万六郎左衛門・後に改めて太郎左衛門)と云う人物也。この同族の者は常に通治(通盛に随逐したる所以也)
6152 ありがとうございます。 mino阿弥 03/06 12:59
峰翁祖一が、はるばる伊予まで来て、なぜ大通寺を開山したのかということが疑問です。
また、ご指摘のように東福寺から変わっていることもですが。
河野通盛(善応寺・南山士雲、正堂士顕・東福寺派)
善応寺殿日照恵公大禅定門
河野通朝(大通寺・峰翁祖一・建長寺大応派)
大通寺殿光山道恵大居士
墓は、西条市(旧東予市)道場寺
河野通朝が、峰翁祖一を伊予に招き、それに応えて70才を越す
峰翁祖一が遠路四国まで生命を賭して渡り、大通寺を開山した経緯は?
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