談話室ゆづき 宗教関連投稿(2008年分)
6155 美濃遠山-土岐-大徳寺-赤松-河野-北朝の禅ルート maru阿弥 03/06 17:56
峰翁祖一の移動ルートを見ていますと、不思議と北朝ルートと重なる思いがします。
峰翁祖一が河野へ来る前の美濃遠山氏は土岐氏とともに、北朝側として奮戦。
峰翁祖一の兄弟弟子・宗峰妙超は大徳寺を開きますが、その土地は播磨の赤松円心が寄進。大徳寺の宗峰妙超は、播磨の出身で赤松円心とは親しい仲。
赤松円心と同じく、伊予の河野氏も古代より海上交易にて親密な間柄。
伊予と播磨は古代から一心同体の動き。(伊予皇子の兄は播磨の皇子)大徳寺派は後醍醐天皇の信任が厚かったため、後に足利氏により最下格へ落とされます。そして、夢窓疎石の時代へ。
それでも、中央に貼り付くのでは無く、地方での展開を重視した峰翁祖一の流れは後に、妙心寺派として花開いてゆきます。
中央政権に媚びない禅風は、道元の曹洞宗を見る思いですが、北朝の地方武士達の精神的基盤として河野の地にも花開き、遠く恵那との交流が生き続けたのであ りましよう。
6156 此れぞ!正しく南北の時代と伊予の迷い道か もと 海遊庵主 03/06 19:47
maru阿弥師、水の源流を一つにしたるを武士の人の世の無常の変遷の辿る所以かと。
遊ぶ程に、庵に身を置くにつけ、mino阿弥師の語られる、伊予古来の越智(族)姓を名乗る家系の恰も異なる数々の時代背景と史料とも・・摩訶不思議な足跡(越智之宿祢の名残と、河野氏の所以)も・・・真に変異の様相(複雑に良きにつけ、悪しきにつけ)ほどに複雑にして、同族の誼か?又は単なる縁起を御神 託に委ねる家系なるか?存在を後世に残す家系(同姓、多氏)も希なのでは無いかと常々ね感じております)。
されども、この度のテーマは、私の知る範疇でも、過去の伊予之国の諸先生方の残された貴重な史料検証・考察・集積の各書籍の記述を重ねて多く残されて居るのも事実なれば、深く思いを重ねれば、今より少しでも、先祖の姿に偲ぶ道標かと!。遡り佛教の渡来と古来神道・神々の合体との融和をもって人々の心の中心 に和合されたる歴史を繋いで現世に具現化している民族は他には居無いのではなかろうか?想いを馳せて偲ぶは又楽しからずや。盛りあがりましょう!
6157 宗峰妙超は浦上氏でした mino阿弥 03/07 10:55
うっかりしていました。
「美濃国諸家系譜」(東大史料編纂所蔵)所収「越智姓稲葉氏之家譜」
「通高」・・「予州を立ち出、播州に移る。浦上備前守を頼り、これより
美濃国に落ち来り、厚見郡霊薬山正法寺の住僧正栄和尚を
(嫩桂正栄・河野氏・臨済宗法燈派)あいたのみ・・・」康暦元年11月(1379)
美濃越智姓稲葉氏祖となった稲葉七郎越智通高は、峰翁祖一
大蟲宗岑の法嗣月菴宗光を介して宗峰妙超に縁のある浦上氏を頼り
さらに、伊予に所領があり、細川氏と敵対関係にあった土岐氏の
本拠美濃へ避難した。
通高は還俗し、美濃国三代守護土岐頼康に仕え、土岐頼康の命で
稲葉左衛門尉藤原通祐の所領相伝、家督相続し稲葉七郎越智通高
として美濃の(越智姓稲葉氏祖)となった。
(稲葉通祐が亡くなった至徳元年に相続しており稲葉通祐に
(藤原姓稲葉氏の)後継者がいなかったものと思われる)
当時、宗峰妙超、峰翁祖一、大蟲宗岑も既に亡く山名氏にも招請され
ていた月菴宗光が関わっていたと考えられ、月菴宗光自身も避難した
可能性がある。
南浦紹明の門下峰翁祖一と宗峰妙超(大徳寺開山)は、やはり親しかった
のでしょうか?
宗峰妙超の法嗣関山慧玄(妙心寺開山)の妙心寺も南朝のつながりを
疑われ、一時廃寺寸前となっている。
その妙心寺を再興した日峰宗瞬は、後醍醐天皇の皇子無文元選禅師の
もとで師事されています。(新日本禅宗史・竹貫元勝著)
6165 大徳寺・北朝ルートは、裏南朝ルートか? maru阿弥 03/07 17:18
通高は、宗峰妙超ゆかりの浦上氏を頼りましたか。大徳寺ルートを使われましたね。
月菴宗光の移動ルートも北朝の大徳寺ルートです。
美濃の嫩桂正栄を頼ったのがまたおもしろい、南朝ルートへ入られましたね。
大徳寺ルートは、北朝でありながら、南朝ともつながっていたかもしれません。
大徳寺をもっとも評価したのは、後醍醐ですし
大徳寺をもっとも落としたのが、足利ですから
大徳寺ネットワークは、裏で天皇ルートと親密だったのでしょーか。
ひょっとして、北朝・大徳寺ルートは、裏・南朝ルートでもあったのか?
おもしろくなりますねー
峰翁祖一と宗峰妙超は、南浦紹明の禅風を守るため、協力しあったと思います。
宗峰妙超亡き後、峰翁祖一が老体にむち打ち、獅子奮迅されている姿が見えて来ます。
足利氏に、最下層に落とされた南浦紹明の禅風を峰翁祖一・関山慧玄らが守られた。
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