談話室ゆづき 宗教関連投稿(2008年分)
6583 鞆の浦の安国寺から見える事 maru阿弥 06/17 19:00
6573 にてmino阿弥様が
>鞆の浦の安国寺は、法燈派の西日本における最大の活動拠点であり、
>伊予にも何らかの影響を与えていた下地があったのではないかとの疑問を出されていましたが、まさにその通りの戦いが為されていると思います。
足利政権から提案された安国寺は、南朝勢力の強い場所に鎮圧の象徴としても建てられていると思われます。
伊予の安国寺は川内にありますが、まさに南朝勢力の中心地。得能氏の足跡があちらこちらに残っておりますし、一遍のふる里とも重なり、まるで北朝勢力が、 南朝に力の鼓舞している風が伝わって来ます。備後鞆の浦は、土佐大高坂城から西条・川内・しまなみ海道を通じて、出雲、隠岐の島へつながり、まさに南朝、南北ルート、大平洋・日本海ルートそのもの で、その中心に法燈国師ゆかりの寺が建っていたとということでありましょう。
後の、戦いにおいても鞆の浦の激しい奪い合いを繰り返し、南朝ゆかりの人物には備後守が輩出しております。伊予の戦いで敗れた南朝勢力はたびたび、備後鞆の浦へ向けて脱出しておりますから、それだけ南朝勢力の強い場所であったと思われます。
後の河野通高の脱出ルートも、南朝色の強い伊予河野氏の滅亡の危機に遭遇、一路、南朝色の強い大徳寺ルートをたどり、土岐氏の正法寺・法燈派の嫩桂正栄ゆ かりの寺を頼ったものと思われます。
すべて、南朝ルート、反細川ルートを辿っている事が見えてまいります。
おおよそ、当時の状況がわかってきました。
鞆の浦は、南朝勢力の脱出ル-トでしたか?
通高が頼った「系図纂要」に見られる椿洞河野氏(河野六郎通利)は、無文元選禅師を
擁する南朝勢力であったと思われます。
まず、椿洞河野氏を頼り、揖斐川町清水の、もともと南朝であった山岸、林一族を頼り
土岐氏に属したということであろうと思います。しかし、依然として峰翁祖一と河野氏の関わりがわかりません。
どのような所以で、河野氏は峰翁祖一を招いたのでしょうか?
また、美濃遠山氏と峰翁の関わりもわかりません。
6634 美濃の南朝・河野一族と峰翁祖一の連携 か? maru阿弥 06/24 15:44
南朝・土岐一族とともに美濃へ避難した、南朝・河野氏一族が
これまた、南朝との縁が深い大徳寺・妙心寺とかかわりの有る、峰翁祖一を頼って
山奥の恵那を頼った事も考えられます。
美濃の山岳部は、伊予の山岳部と似て、非常に南朝の臭いが致します。
恵那を一山こえれば、伊那へ抜け、宗良親皇や北条氏残党との緊密なネットワークが
組めます。
山岳南朝レジスタンスにとっては、最高の場所となり、
その中心に、峰翁祖一がおられ、南朝・河野一族が頼って籠り
さらには、伊予の南朝勢力とも連絡を取り合い、和平工作に奔走されたかもしれません。
美濃へ逃げ込んだ、河野一族であれば、充分にやりそうな事であります。
峰翁祖一は博多崇福寺(南浦紹明開山・峰翁は三世)や福岡遠賀郡の海蔵寺(峰翁開山)
文書によれば、98歳示寂説であり、1240生~1337没説
(大円寺で没したとされる)もうひとつは、84歳示寂説 1274生~1357没説
大通寺の創建年などを考慮すれば、後者の説かとも考えられますが?
北条時宗の生没年が1251生~1284没と考えれば、峰翁祖一が
同母弟という所伝も確かなものかどうかは、わからなくなります。
実際には、世阿弥の書にも見られるように月菴宗光の存在が大きい
ような気がします。
妙心寺も世阿弥も、ひどい目にあったのでは?
余談ですが北陸に宗良親王の墓という伝承の地があります。
「大野郡清水(揖斐川町清水)は伊予河野党の人々の流寓しておれる処」
と吉田東伍の大日本地名辞書には書かれています。(稲葉氏発祥の地)
始めに清水が流寓の地となり無文禅師の椿洞は、もう少し時代が下って
からと推測されます。
揖斐には川湊があり、戦国期以前は、大きな舟が行き来していたようです。
この水運も南朝勢力と大いに関係していたのではないかと思います。
6639 宗峰妙超と関山慧玄と峰翁祖一と月菴宗光 maru阿弥 06/24 19:00
博多崇福寺へは、大徳寺開山の宗峰妙超も派遣されたようですが、
後醍醐天皇の要請ですぐに京に戻られたようです。1320年代半ば。
後、元弘の変では、笠置の後醍醐天皇から京の宗峰妙超へたびだび書簡が回されたようで、宗峰妙超の代理として、後に妙心寺開山の関山慧玄が派遣され、その 後、関山慧玄 は美濃の山奥へ籠られます。
この関山慧玄の跡を継がれた妙心寺2世が、後醍醐天皇の側近中の側近でたびたび後醍醐天皇を諌め、また楠木正成を引き合わせたと言う、万里小路藤房(妙心 寺2世・授翁宗弼)であると、妙心寺では伝えられてあります。
大徳寺、妙心寺ともに足利政権から疎まれるはずです。
この大徳寺や妙心寺と同門であった峰翁祖一や月菴宗光、おのずと政治的動向も見えて来ます。伊予河野党の人々の流寓とは、美濃の南朝残存勢力の事と思われますが、これもまた
美濃の南朝勢力の土岐一族が手配されたのではないでしようか。
また、水運関係者として入れば、非戦闘員のハイテク集団として生き延びる事が可能であったと思われます。
南朝残存勢力には、格好の隠れ蓑になったことと思われます。
博多崇福寺の五世が宗峰妙超で、峰翁祖一の方が宗峰より多少
年長だったようですが。
根尾谷に拠っていた脇屋義助の南朝勢力は、土岐頼遠、頼康との攻防で
脇屋義助は、四国へ逃れ病没していますが、脇屋氏とともに北陸から
落居した加賀の武士団は、「美濃国諸家系譜」を読んでいくと
土岐頼遠に懐柔され土岐方についたように推察されます。
土岐頼遠の娘または養女かもしれませんが、婚姻関係を結び、近辺の
所領をもらい次第に土岐氏の旗下になっていったような感じです。
揖斐川町清水の夢窓国師開山の釣月院あたり(流寓の地)は、二代守護
土岐頼遠の所領と「美濃国諸旧記」には書かれています。
土岐頼遠は刑死し、よくわかりませんが軍事的には優れた武将であった
ような気がします。
「流寓」とは、「さすらって他国に住むこと」と私の辞書に書かれています。
稲葉氏が井伊氏に月桂院(稲葉氏菩提寺)を頼み豊後臼杵に移住したことも、
底辺には南朝として何らかのつながりがあったやもしれません。
「稲葉氏由緒答問録」中の月桂院住持月緒は、近江出身で井伊氏が派遣した
人のようです。
6651 夢窓国師か足利の悪口を言ったのか? maru阿弥 06/25 15:05
土岐頼遠は夢窓国師と親密であられたようですね。
北朝であればこれが普通なのですが、なぜか河野一族は夢窓国師と縁がうすい。
河野氏が完全な北朝方であれば、河野氏ゆかりの禅寺に夢窓派の寺がたくさん建つはずですが、建っていないのです。せいぜい、1339年の安国寺くらい。
あとは、なぜか南朝と親密な禅寺ばかりです。
夢窓国師か足利の悪口でも言ったのかな?
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