談話室ゆづき 宗教関連投稿(2008年分)
6569 南朝との談合のシンボル寺、大通寺 maru阿弥 06/15 18:34
河野郷の大通寺、これは南朝との談合のシンボル寺です。
大通寺の兄弟寺、京の大徳寺、妙心寺を見ればあきらかなことですがともに、後醍醐天皇とのかかわりが強く、足利政権からは睨まれた寺。
足利政権から睨まれた寺に縁の深い峰翁祖一を、わざわざ河野郷に呼ぶメリットはほとんどありません。
もしメリットがあるとするならば、反細川侵攻対策として、メリットがあります。
1342年の細川頼春のどさくさにまぎれての伊予侵攻をはばんだのは、伊予の南朝勢力のおかげ、彼等なくしては細川頼春の脅威は一気に、河野宗家へ及びま す。そこで、その数年後、1345年頃、河野通盛は、南朝勢力に人望のある峰翁祖一を招かれた。
このころ既に、大徳寺開山の宗峰妙超は亡くなられ、宗峰妙超にならぶ人物として兄弟弟子の峰翁祖一は美濃の大円寺にご健在。
河野通有と学んだ仲ということを前面に出せば、足利政権からの睨みをかわすことも出来ます。峰翁祖一や月菴宗光の人的ネットワークもこれら南朝ゆかりの人物が現れます。
河野通盛の先見の明は、この20年後の1364年に見事に的中。
南朝との談合ネットワークの力にて、生き延びる事ができました。伊予の大通寺はまさしく、南朝との談合のシンボル寺そのものでありました。
昨日は、臨済宗建長寺派宗務総長の高井正俊師に、お目にかかりました。
建長寺管長は、岐阜の伊自良のご出身だそうです。
南山士雲や南浦紹明も建長寺の住持であり、伊予の寺院も底辺には
建長寺との何らかの関わりがあったやもしれません。
大昔は、何々派というような垣根は、あまりなかったのではないかと思われます。
お聞きすると臨済宗は横のつながりが結構あるようです。余談ですが、大通寺文書、宗昌寺文書は実在しているかどうかということですが
愛媛県史、市史の史料編などに何らかの記述は、ありますでしょうか?
6572 宗昌寺文書の件 maru阿弥 06/16 13:09
宗昌寺文書の件ですが、そういう文書はっきりしていなとのことです。
何代か前に書かれた記録が、年代がおかしいとかで最近、最調査されたようで
「五山禅僧伝記集成」の1400年代うんぬんは、完全に誤りだと話されていました。
1360年代よりも、逆に古くなるとのことですが、
これは海遊庵主様ご指摘の正岡経孝の建立の話しにまで遡っているものと思われます。「五山禅僧伝記集成」は現地調査をされれば起きない、典型的な誤りであります。
大蟲宗岑の木造を見られるだけでも、書けない誤りであります。
千葉の方の話では、蘭渓道隆の高弟明窓宗鑑(建仁寺)が無文元選の得度師だそうで
無文元選を調査すると法燈派とのつながりが見えるそうです。
土岐頼康開基の正法寺に法燈派の嫩桂正栄がいて、無文禅師が了義寺を開山したことも
不思議なことではなくなってきたように思われます。
向嶽寺の抜隊得勝、国泰寺の慈雲妙意も狐峰覚明に参じており、
南朝のネットワークが見えるとのことです。
また、maru阿弥師ご指摘の狐峰覚明には月菴宗光も参じており、
一遍上人も諸説ありますが,に参じたという説もあります。
鞆の浦の安国寺は、法燈派の西日本における最大の活動拠点であり、
伊予にも何らかの影響を与えていた下地があったのではないかと考えられます。
6574 ありがとうございます mino阿弥 06/16 13:30
木造に住持宗岑と書かれているようで、宗昌寺の創建年を考慮すれば1411年まで
大蟲禅師が生存していたということは、ありえないことだと思います。
また、「日本禅宗史」竹貫元勝著の法系図は、「五山禅僧伝記集成」を参考にして
書かれているのではないかと思います。
いずれの著書も日本における禅宗史の権威者と言われるような方が
書かれたようですから、本当に困ります。
「五山禅僧伝記集成」は、わざわざ「大蟲宗岑」は、誤りであり
「大蟲全岑」が正しいと特に注釈していますから、余計始末が悪いと思います。これは、松山市としても正式な見解を示しておかれた方が
良いのではないかと思います。
6575 大通寺文書の件 maru阿弥 06/16 15:33
これまた、大通寺には残っていないようで、聞いた事もありませんとのことでした。
詳しい寺史も戦災で焼けてしまい、
答えようが無いようです。なんのことやら、ちんぷんかんぷんの風でありました。
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