談話室ゆづき 宗教関連投稿(2008年分)
6410 南山士雲と峰翁祖一と河野対馬入道の共通項 maru阿弥 05/15 12:15
善応寺ゆかりの南山士雲と、大通寺ゆかりの峰翁祖一
太平記を読んでいると両者の共通項が見えて参ります。
鎌倉幕府滅亡の最期の場面、南山士雲が北条一族の勇士に最期の激をとばす場面が描かれています。
史実では、南山士雲は京都におられたにも関わらず太平記では鎌倉に登場。
この謎は、南山士雲が北条一族の心の支えであったのでしょう。
この場面は、六波羅が落ちる場面で起きた事かもしれませんが、どちらにしろ、南山士雲と北条一族の親密性が伝わって参ります。
かたや峰翁祖一、これまた赤橋氏の流れを伝える北条氏ゆかりの名僧。河野通有との縁も伝えてあります。
善応寺、大通寺と河野対馬入道ゆかりの寺には、どうも北条一族への河野対馬入道の義理立てを見る思いが致します。
河野対馬入道という名も不思議なもので、対馬というのは北条一族からもらった名誉職でもあるにも関わらず、河野対馬入道はその名前を一生使われています。
建武の新政、足利幕府となんらメリットの無い名を、なぜ一生大事に使われたのでしょうか。
河野対馬入道の北条一族、鎌倉幕府への深い思い入れが対馬入道という名に見て取る事ができます。
南山士雲と峰翁祖一と河野対馬入道は、北条一族、鎌倉幕府が共通項となり、
善応寺、大通寺ともに、河野対馬入道の北条一族、鎌倉幕府への鎮魂の寺でありましょうか。
6539 義堂周信のこと 海遊庵主 06/10 14:12
maru阿弥師・・このテーマは一人寂しく残って御座る?・・さて、本日土佐の国の史料を見ておりましたが、土佐の津野村の出自 (一説にはこの在の津野氏は伊予河野氏所縁の家柄と)のこと、度々ご紹介してましたが、鎌倉・室町時代の人名事典を改めて見てみると、下記の通り書かれて おりましたので、ご紹介致します。
義堂周信(嘉暦元年1326年~康応元年1389年)、南北朝時代の禅僧、土佐の人・号は空華道人。はじめ比叡山で密教を学んだが、禅に引かれ17歳で無 窓疎石に参じ、師として、その法を継ぐ。延文四年・正平十四年(1359年)管領足利基氏の招きにて鎌倉円覚寺に住し、貞治五年・正平二十一年(1366 年)善福寺の主となる。応安四年・建徳二年(1371年)報恩寺を建立した上杉氏の請われてこの開山始祖となる。康暦元年・天授五年(1379年)将軍足 利義満の命によりて帰京して、建仁寺・等持院に住し、至徳三年・元中三年(1386年)南禅寺住侍となる。此れ以降、南禅寺は五山の上に置かれると。康応 元年・元中六年(1389年)四月四日・64歳にて寂すと。・・絶海中津(この僧も同じく土佐津野村の同郷の御仁)と
ともに五山文学の双璧と言われおり、其の詩は中国人をして自国人の作と思わせたと聞く。著作には、『語録』・『空華集』・『東山空和和尚外集抄』・『禅儀 外文集抄』等があると記す。
また、別冊の書には『延文四年(1359年)に足利基氏にれて招かれて鎌倉に下り、基氏、氏満を始め、上杉朝房、同能憲らに帰依を受け夢窓派の関東におけ る指導者として、20年間鎌倉に滞在したのです。其の後上洛、義満はじめ公武の篤い信仰を一身に集めて、将軍・鎌倉公家双方の両府間の斡旋にあたったとこ ろ多く、義堂存命中は両府間の関係は平穏に保たれていたと。
その日記『空華日用工夫略集』は南北朝時代の政治・社会・文化に関する貴重な史料であるとも聞く。 ぜひ皆様の心の片隅にお留め置きください。
6543 能をヒントに河野郷の寺寺を見ますと maru阿弥 06/10 19:51
伊予の河野氏ゆかりの寺で夢窓派は少ないです。川内町の安国寺くらいでしょうか。
この時代の伊予の河野氏は、なぜか室町幕府の五山派から距離をとっています。
これが不思議なところでありましたが、よーく考えると
平家・河野通盛の鎌倉幕府への義理立て、あるいは北条一族への鎮魂が見えて来ます。
当時の人々の心情は、能を見ればわかりますが、怨霊や祟りを非常に恐れています。
能をヒントに河野郷の寺寺を見ますと、まさしく北条一族鎮魂の寺寺ですねー。
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