談話室ゆづき 宗教関連投稿(2008年分)
6345 河野通盛が建てた、三つの禅寺から見える事 maru阿弥 04/17 16:59
河野通盛は、大きな寺を三つ建てています。
三つとも禅寺ですが、それぞれ派閥が違い、河野通盛の心的変化が見えて来ます。最初に建てた寺が、善応寺、東福寺派。
東福寺は、後醍醐天皇から五山を外されかけたことがありました。
後醍醐天皇と東福寺派の公家たちとの間に、なんらかのトラブルがあったのでしょう。
足利幕府とは相性が良かったようです。次に川内の安国寺を1339年、後醍醐天皇が亡くなられてから建てています。
これは、夢窓派の春屋妙葩が開起で、足利幕府とも相性が良いです。問題はその次に建てた大通寺です。
これは足利幕府と相性が悪い。
大徳寺、妙心寺と縁の深い、峰翁祖一ゆかりの大通寺です。
後村上天皇、南朝とは相性の良い寺です。幕府よりの河野通盛が1345年に、なぜか突然、南朝とも相性の良い寺を建てられた。
それも、息子の河野通朝のために。
1340年代、河野通盛は守護を外されていますから、河野通盛も子孫の行く末に考える所があったのでしょう。
あえて、幕府に睨まれている寺を建てています。予章記の記録の1340年代、反南朝的記録が一切ありません。
伊予にはまるで敵対勢力など居ないがごとき記録です。大通寺を建てた河野通盛や通朝の心境が見えて来るようではありませんか。
6347 大通寺と兄弟寺・妙心寺二世と、月菴宗光 のこと maru阿弥 04/18 13:27
大通寺と兄弟寺に、京都の妙心寺がありますが、
そこの二世が、授翁宗弼です。
この授翁宗弼が、妙心寺では後醍醐天皇の側近であった藤原藤房であると伝えられています。
藤原藤房は、後醍醐天皇と幕府倒幕プランを練り、楠正成を後醍醐天皇に引き合わせた人物といわれていますが、建武の新政で後醍醐天皇を諌め意見が入れられ なくて、出奔しております。
その人物が、1360年代に美濃と縁の深い関山慧玄の亡くなった後、妙心寺二世になったと伝えられているのです。
ちょうどその頃、伊予河野氏へ月菴宗光がやって参りますが同門の授翁宗弼の事はよーく御存知であったことと思われます。
月菴宗光は、峰翁祖一亡き後、京都に出て来ていた弧峰覚明に師事され、つづいて伊予の大虫宗岑を訪ねています。
そして、この月菴宗光が河野通朝の死に立ち会い
つづいて河野通盛の死
さらには、大通寺へ落ち延びた河野通尭をかくまっており
つづいて、南朝方の村上氏と河野通尭を引き合わせたある僧が居たと予章記には記され
そして、河野通尭の死を見届けて伊予の地を離れられております。
春屋妙葩は、幕府ではなく細川頼之と、特に対立している。
河野家にとっても細川頼之は、河野通朝、通堯を討った憎むべき敵。
土岐頼康に対して討伐命令まで出している細川頼之は、土岐氏にとっても敵。
Maru阿弥師の観点から、根本的に伊予の中世史を見直す必要があるのではないか?
禅僧の影響力を、もう少し考える必要があり、欠けている部分ではないか?
6350 Re:6348 中世史の見直し 今城 04/21 19:05
> Maru阿弥師の観点から、根本的に伊予の中世史を見直す必要があるのではないか?> 禅僧の影響力を、もう少し考える必要があり、欠けている部分ではないか?
伊予だけでなく、今、中世史全体の見直しの最中です。中世の本格的研究が始まったのはつい最近のことで、湯築城の調査開始とほぼ同じ頃です。たかだか 20年しか経っていません。素人目には現在まだ軍事・政治面に研究が集中しているように感じます。ご指摘のように宗教面からの研究はこれからの課題でしょ う。
どのように見直されているか、私が知る例を二つ挙げてみます。
第一は源平合戦と言われる古代から中世へ移行する争乱は、実は源氏と平家の争いでなく、旧秩序を守ろうとする勢力と新秩序を求める勢力の争いであること
から、源平合戦と呼ぶのは相応しくないとして、別の呼称が提唱されていました。それが何であったか忘れてしまいましたが、見た時は非常に適切な表現だと思
いました。頼朝に従った坂東武士は殆んど平家で、彼らは汗水垂らして開いた土地の権利を認めることを求めて頼朝に付きました。その武士達の目的は平家を倒
すことでなく、あらゆる権利を貴族が独占する体制を打倒することでした。
第二は室町時代の捉え方です。昔は統一された秩序がなく、ばらばらの詰まらぬ時代と言われました。今は、地域の個性が芽生えた時代と言われているそうで
す。一つのことをどちらから見るか、視点の違いです。
中世の見方について、藤木久志氏の「雑兵たちの戦場」と言う本が大きな衝撃を与えたと聞いております。この本は一読の価値があると思います。
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