4363 お千代さんと一豊、大通智勝仏に眠る maru阿弥 04/05 18:14
お千代さん晩年は、河野氏・大通智勝仏ゆかりの、京都、妙心寺・大通院で過ごされました。
この大通院で、お千代さんはその拾子・湘南和尚と一豊の菩提を弔います。
山内一豊、お千代さん、共に大通智勝仏の懐にて、静かに眠っておられます。
4364 黄門さんと本圀寺 遊行笑人 04/05 19:02
本当にほんと!・・師匠の仰せの通り。湘南和尚さんは一豊公養われ、南化国師の教え受け、京都妙心寺の末寺として、細川氏・長宗我部氏・山内氏と受け継いだ、夢窓疎石開基の吸江庵を再興して、吸江寺と改めた。寺宝には湘南和尚画像や・・夢窓国師坐像・足利四代将軍持書の額や重要文 化財の地蔵佛像など等あり。・・・一豊公夫妻の位牌は妙心寺に、又、寛文九年十月には京都妙心寺大通院から、一豊公の墓は、土佐国禅寺真如寺・日蓮宗要法寺傍の潮江山の山内家御墓所の在り。・・・只今一般の来訪の方々に開放中です。(博覧会に催して)
さて、話題は変わりますが、室町時代には京都の本圀寺は本国寺と云われており、尊氏の庇護や・・江戸時代には、水戸光圀殿の深い信仰を受けて『国』の寺 を、黄門さんの『圀』の字を頂いて、『本圀寺』と改めたと聞く。・・・土佐の領主の寺々、禅宗・真言宗・日蓮宗と、人生色々・・お寺もいろいろか と!・・・此れ皆・・法華経・大通智勝佛の御偉功かと。南無
4366 鎌倉松葉ケ谷の本圀寺 maru阿弥 04/06 19:45
20年ぐらい前に、鎌倉松葉ケ谷の法経堂大光山本圀寺へ、訪ねました。一遍さんと江ノ島近くで、踊り念仏を踊った後、日蓮さんの 松葉ケ谷へ、お伺いしますと、日蓮さん著述でお忙しそうでした。お邪魔をしないように周辺を散策・銅像に手を合わせて、近くの銭湯に入って帰りました。い い、銭湯でした。鎌倉松葉ケ谷の本圀寺、今でも静かな所であったことを思い出します。黄門様も、来られていたとは知りませんでした。
4367 よくぞ!ご存知で。 遊行笑人 04/07 03:08
maru阿弥師、元は鎌倉に在りて、日蓮上人の松葉谷法難所縁の寺なり。この事を知るは流石です!・・・後に京都に移り、又広布 山と号す・・・六条堀川通り・・西本願寺の北側に広大な寺跡が見られたが、故あって現在は山科天智天皇陵の上方の山中に在ります。
天文年間(五年)には、法華の乱にて一時堺に逃れて、再び京都の地に戻った経緯も伺って居ります。私が丁度人生再出発の会社勤めを始めれたのは、讃岐高松支社で受験して、即、辞令にて京都に務めをした際には、偶然にも堀川通り花屋町下の会社(京都支社)であり、本圀寺旧跡の斜め前の勤務地、社員寮は山科こ の地の近隣でした。・・・其の時代は昭和五十年八月にて、この寺が山科に移った直後でした。・・・未だに不思議で為りません。其れまでは一度も行った事も 無い、話には伺っていた先祖所縁寺でして、導かれる侭の由縁の摩訶不思議な昔話なのです。
4368 重ねて土佐と京都と寺と氏族の繋がりを解く 遊行笑人 04/07 09:28
笑人一連の遊行の道中の所以・先祖の面影を辿る本願は、此れ迄に数々の史実に巡り会いました
我家の系図と過去帳と本籍の代々の菩提寺(日蓮宗京都妙顕寺派真静寺)と讃岐の国の寺(本圀寺派慈雲寺)の江戸時代の墓碑の刻字の文書と、土佐の国の守護 代細川氏の寺(京都頂妙寺派妙国寺・江戸時代には一豊公の菩提寺・城下の要法寺町の寺町に並ぶ)と其の舘跡(田村庄)に立っている細勝寺(細川勝元氏由縁 の寺名・元妙国寺跡)を訪ねて、その寺々が深く係わる、石谷攝津守入道空然(石谷兵部大輔)と稲葉勘右衛門重通との由縁の真静寺と山内氏の要法寺(剃髪の 寺)と、頂妙寺と本圀寺(先祖河野智迪が夫々40世・42世の住職を江戸末期に住職を務める)等、真しく大通智勝佛の諭すところ也!・・・自然に導かれた 本願成就の想いなり。南無
伊予と土佐と京都と寺繋がりの史実を解く旅日記です。・・・今回は遊行の『笑』は『勝』の一字に置き換えて遊行勝人と名乗る面持ち也。
4372 一豊の子と、美濃土岐氏の快川紹喜 maru阿弥 04/07 19:49
一豊の子とも言われる湘南宗化の師匠が、河野氏ゆかりの美濃一柳・南化玄興ですねー。
この南化玄興、なかなかに気骨の有る方で、武田勝頼の首が京に晒されているのを信長に願い出て、引き取り埋葬されたよし、なかなかに出来ない事です。
気骨が有るのは道理で、信長に逆らって焼き殺された、美濃土岐氏の快川紹喜の一の弟子が、この河野氏ゆかりの、南化玄興で、その弟子が一豊の子とも言われる湘南宗化なんですよ。一豊の子と快川紹喜は、つながっていますねー。歴史って、本当に不思議。