談話室ゆづき 宗教関連投稿(2008年分)
6179 月菴宗光 mino阿弥 03/10 14:53
「世阿弥と月菴宗光」(能と狂言4)天野文雄氏の研究より (ぺりかん社)
○世阿弥の「拾玉得花」の末尾に「月菴和尚云、・・・
○「月菴禅師語録」月菴の弟子茂林興樹が応永十六年に刊行
○「月菴法語二帖又一帖}義教の御所に備えられていた
○月菴の弟子大徳寺二十一世香林宗?、南禅寺の住持になった
孫弟子の梅屋宗香や雪堂宗坡
○月菴と山名時煕との師弟関係
○山名氏は時煕の祖父時代から領国但馬黒川の大明寺の月菴に帰依していた
○世阿弥が帰依したのは曹洞禅
○月菴は総持寺住持峨山紹碩に参じた
○臨済ながら月菴は峨山の法脉にとっては親近感の強い師家であった
○世阿弥は「峨山の法脉」につらなっている
○月菴の事蹟をとおして当時の臨済と曹洞の交流の実態の一端を知りえた
maru阿弥師、よろしくお願いします。
6186 大通寺が、曹洞宗につながる伏線
maru阿弥 03/12
11:06
mino阿弥様、すごい、発見しましたね。
大通寺が、曹洞宗につながる伏線が見えましたねー
すごい、すごい。
6187 追伸 mino阿弥 03/12 13:02
「月菴法語二帖又一帖」が義教の御所に備えられていた。
惟肖得巌が月菴を「吾師」としている。
惟肖は、将軍義持から篤く敬慕されていた禅僧。
応永十三年に後小松天皇から月菴に正続大祖禅師号が与えられた。
とあります。
大徳寺は、宗峰妙超門下でなければ住持になれないはずですが
月菴の弟子香林宗?が第二十一世となっており孫弟子の梅屋宗春が
南禅寺の住持になっています。
やはり南浦紹明の法嗣として宗峰妙超と月菴宗光は親しく交流が
あったと考えられます。
岩村の大円寺は、後年、妙心寺派となっています。
月菴宗光は、想像以上に将軍家や朝廷とも近い人物であったようです。
山名氏との師弟関係が知られますが、河野氏との関わりは?
6190 山名氏と河野氏との関わりは細川対策
maru阿弥 03/12
16:52
山名氏と河野氏との関わりは、ずばり細川対策でありましょう。
大内・山名氏が南朝として戦ったのも、細川対策ですし、
河野通尭が南朝となったのも、細川対策です。
月菴宗光が最明寺再興のおりの河野通尭は、南朝より伊予の守護に任命されています。
月菴宗光は、南朝の河野氏を指導されました。
この細川対策、100年後の応仁の乱でも、またまた大噴火。
山名・大内・河野連合が、細川・河野と戦っております。
6191 なるほど mino阿弥 03/12 17:29
斯波、土岐氏も敵対しています。
惟肖得巌は南禅寺の住持でもあり、そんなこともあり月菴の孫弟子を
南禅寺の住持にしたやも知れません。
禅宗は、思わぬところでつながりがあり、よほど調べないとわかりません。
大徳寺、妙心寺、大円寺なども同様です。
高僧達は、朝廷、将軍家、大名家とも近く大きな影響力があったと思われます。
6195 峨山韶磧の師と法灯派の無本覚心
maru阿弥 03/13
11:12
そうですね。当時の高僧達は、朝廷、将軍家、大名家の経営コンサルタントもやられていたのでしょう。
河野・大内・山名・斯波・土岐氏ともども、細川対策には苦慮されたようですね。
河野通高の避難ルートも、細川避難ルートに見えて来ます。
細川氏は、足利政権の中心的軍事を担われ、各地の守護を震え上がらせていたことでしよう。
月菴宗光が師事された、曹洞宗の峨山韶磧の師が、瑩山紹瑾で瑩山紹瑾は法灯派の無本覚心に師事していますし、河野通高はたしか、美濃の法灯派を訪ねられた
よし。
6200 そうですか mino阿弥 03/14 15:30
そこまで、つながりますか?
すごいですね。
「美濃国諸家系譜」によれば
美濃越智姓稲葉氏祖河野通高は、三代守護土岐頼康開基、川手の正法寺開山嫩桂正栄を
頼って美濃へ来たということになっています。
嫩桂正栄は、河野氏であり、また臨済宗法燈派とされています。
しかし、この嫩桂正栄という方は、どういう方か、まったくわかりません。
美濃、尾張、伊勢の三国守護である土岐頼康が、土岐氏の守護所であろう川手城に
隣接した正法寺の開山として法燈派の僧を起用したこと自体が不可解です。
さらにその住持の出自が河野氏とは、なんということでしょうか?
まるで小説です。
嫩桂正栄という方は、私の能力では調べることができません。
福山市鞆町の安国寺には、法燈派の何らかの所伝が存在するやも知れませんが。
もし、おわかりであればお教え下さい。
6201 河野氏・土岐氏存続の為に嫩桂正栄が招か
れる maru阿弥
03/14 18:25
法燈派と親しい南朝の最大のライバルは、細川頼之です。
嫩桂正栄の母体・河野氏の最大のライバルは、細川頼之です。
河野通高の最大のライバルも、細川頼之です。
土岐頼康の最大のライバルも、細川頼之です。
土岐頼康が招いた、河野氏の嫩桂正栄は、細川頼之対策で招かれた河野氏ゆかりの軍師では?
河野氏・土岐氏存続の為に、南朝ゆかりの嫩桂正栄が働かれた。
ちなみに、この時期の伊予河野郷は南朝の河野郷です。
6202 安国寺の最大のライバルも、細川頼之
maru阿弥 03/14
19:48
もう一つ落としていました。
安国寺の最大のライバルも、細川頼之です。
安国寺の総元締、春屋妙葩 (窓疎石の弟子)が細川頼之と南禅寺問題で対立
丹後の山名氏を頼っております。
なにやら、月菴宗光と同じ動きをされています。
月菴宗光も春屋妙葩も
ともに、細川頼之に泣かされ。
なにやら、完璧な細川頼之包囲網が出来上がって来ます。
6203 少し見えてきました mino阿弥 03/15 10:50
嫩桂正栄の軍師説は、卓見ですね。
法燈派は、他に見当たらず、河野、山名氏など対細川陣営との調整役であった
やもしれません。
後醍醐天皇の皇子無文元選禅師は、春屋妙葩と友交があったという伝承あり。
無文禅師の師は、古梅正友。
この説は、ぜひ、まとめて頂きたいと思います。
6213 土岐頼康の南北朝の統一への動き?
maru阿弥 03/17
09:52
嫩桂正栄は、無本覚心の高弟でありました。
無本覚心の高弟とされる方に、一遍が入っておりますから(異論もあり)、
嫩桂正栄は、一遍にならぶ河野氏ゆかりの重要な人物となります。
無本覚心の高弟で、弧峰覚明という方が、観応の擾乱のおり
南朝側の南北朝統一に取り組まれていたといいますから
嫩桂正栄も法灯派として、南北朝統一を考えられていたのかもしれません。
土岐頼康も、パワーバランスならびに南北朝の統一を視野に入れて動かれていたのかもしれません。
美濃は南朝側にも、魅力的な場所であったようですから。
6214 そうですか mino阿弥 03/17 11:49
鞆の浦は、古代からの湊でもあり、地理的に見ても、鞆の金宝寺(安国寺)に
河野氏出自の方々が修行されていても不思議ではないと思います。
嫩桂正栄が、鞆の安国寺の高僧であったとすれば、河野通高が、嫩桂正栄の
もとで修行していたという可能性もあるのではないでしょうか?
その嫩桂正栄が、三代守護土岐頼康に招かれ、美濃の正法寺開山となっていた。
1379年の河野氏の危機をきっかけに、河野通高は、師である嫩桂正栄を頼り
美濃へ落ち延びたということも大いに考えられます。
そうであれば、河野通高が美濃へ来た理由も、無理なく説明がつきます。
その後、通高は、還俗し、嫩桂正栄の口ぞえもあり、三代守護土岐頼康の命で
後継者が絶えた藤原姓稲葉氏の名跡を相続し、越智姓稲葉氏の誕生となったと
考えられます。
嫩桂正栄が南北朝統一を視野にいれていたとすれば、無文元選の美濃における
寺の開山も、また河野伊予守通村が建立したことも比較的スムースに受け入れられた
のではないかと思います。
また、「美濃国諸家系譜」所収「越智姓稲葉氏之家譜」によれば
嫩桂正栄は
「俗称は河野氏の由にて夢窓国師の法縁に当たりて土岐頼康の帰依僧にて正法寺の
開山なり」と書かれています。
嫩桂正栄が、無本覚心の高弟であれば、嫩桂正栄自身も河野氏出自として
それ相応の人物であったと考えられます。
ひっとしたら河野氏の庶々流という方ではなく本宗家に、ごく近い河野氏庶流では
なかったかと考えられます。
また、河野通高は、あまり問題にされていませんが、諸系図に述べられている如く
河野通高自身も河野氏本流に近い庶流であった可能性があり、系図上の記載は
まったく荒唐無稽なものではないのではないかという感じがしてきました。
また、何か手がかりがありましたら、お教え頂きたいと思います。
ありがとうございました。
6221 夢窓疎石と似た年代 maru阿弥 03/18
15:47
嫩桂正栄は、無本覚心の高弟ですから、夢窓疎石と似た年代だと思われます。
夢窓疎石も、無本覚心に弟子入りしたかったようですから、夢窓疎石よりも
若干、年上の可能性があります。
一遍も無本覚心のもとを訪ねたと言い伝えられていますが、そのあたりの
消息を知っている人物が嫩桂正栄ではなかろうかとも、思われます。
とにかく、無本覚心のもとに、河野氏ゆかりの人物が二人も名を残している事も
驚きです。
河野通高が訪ねた頃は、嫩桂正栄は100才前後になられるかもしれませんから
亡くなられていたかもしれません。
6223 年代のチェックをしてみました
mino阿弥 03/18 18:06
無本覚心 1207~1298
夢窓国師 1275~1351
土岐頼康 1318~1387or8
土岐頼康の祖父(父は、土岐頼清)
土岐頼貞 1271(1264)~1339
土岐頼貞の系図上の父
土岐光定 1207~1281
土岐光定ー頼貞ー頼清ー頼康
土岐頼康が川手の正法寺を開基した頃には、すでに無本覚心は
没していたということになります。
嫩桂正栄の生没年がわかりませんが、ご指摘の如く100才を越えていたとも
考えられます。
無本覚心と年代的に符合する土岐氏は、伊予で没した土岐光定と
いうことになります。
土岐光定の頃よりの所縁によって法燈派の僧が招かれたのでしょうか?
しかし、なぜ嫩桂正栄が開山したとされているのでしょうか?
名前だけの開山なのか、霊薬山正法寺ですから薬の知識に長けた方で
あった可能性もあります。
なんとも、わかりません。
6224 月菴宗光と嫩桂正栄の平和プラン
maru阿弥 03/18
19:30
正法寺は1300年代半ばと伝わっていますから、
土岐頼康が嫩桂正栄を招いたとすれば、当時の大事件・観応の擾乱や正平一統の
時代の流れを読まれ、土岐頼康自身も、南北朝合一を模索されていたと思います。
当時の有力守護は皆、南北朝合一プランに苦心されていたのでは。
嫩桂正栄と兄弟弟子の弧峰覚明が、1271~1361と伝わっており
嫩桂正栄も1370年代ぐらいまでは、御健在だったのかもしれません。
河野通高が頼られた時は、嫩桂正栄の高弟が迎えられたのかもしれません。
弧峰覚明が但馬の安国寺を建てており、その近くには月菴宗光が3箇所も寺を建てておられます。伊予を一時出られた1360年代後半ですから、弧峰覚明はす
でに亡く、南北朝合一の動きの法灯派と月菴宗光の動きは、嫩桂正栄が後を引き継いでいたのではないかと思われます。
月菴宗光ゆかりの伊予は一時なりとも10何年、南北朝合一が実現しておりますし、月菴宗光も法灯派と連係した動きをされていたのではないでしょうか。
月菴宗光と河野氏ゆかりの嫩桂正栄は、平和を願って、南北朝合一プランを進められていたのかもしれません。
6231 狐峰覚明は mino阿弥 03/19 11:06
生没年1271~1361(後村上天皇から三光国師号を賜る)
紀伊国興国寺で無本覚心に参禅
南浦紹明、能登国永光寺の瑩山紹瑾に師事。興国寺に住。
嫩桂正栄が狐峰覚明と兄弟弟子であったとすれば、土岐頼康の時代に
かろうじて生きていた可能性もあります。
無本覚心の生没年が確かなものであるとすれば、この二人は最晩年に
近い弟子ということになります。
もっとも、河野通高が正法寺を頼った1379年には、嫩桂正栄は確実に
生存していなかったと考えられ、弟子の可能性が大と思われます。
河野通盛が建長寺の南山士雲を頼った時、南山士雲が生存していたか
どうか微妙なところですが、同様なことが河野通高にも言えると思います。
嫩桂正栄は、無本覚心の直接の弟子か孫弟子ほどにあたるのか法燈派内の
位置がわかりません。
確実な生没年や、また法燈派の法系がわかればと思います。
6232 由良門徒 mino阿弥 03/19 14:26
一条兼良の「藤川の記」には、正法寺は「由良門徒である」と書かれています。
和歌山県由良町の興国寺に関わることを示す記述であろうと思います。
また、松山市にも関係あるかどうかわかりませんが、由良という地名があります。
土岐氏は、てっきり天台宗から臨済宗に変わったものと思っていましたが
法燈派が土岐氏と関係していたとは、驚きです。
しかも、三代守護土岐頼康の川手城に隣接した地の正法寺に拠点があったとは
なかなか理解できません。
この時代の法燈派の活動が判れば手がかりになると思います。
6233 美濃の強力な南朝勢力への懐柔策?
maru阿弥 03/19
16:18
美濃瑞巌寺はたしか南禅寺の流れ
南禅寺は無本覚心を初代に招くも、無本覚心が固辞したやに聞きます。
由良門徒とも言うのですか。
由良は新田氏の別名とも聞きますが(新田荘のまん中に由良があるとか)、不思議です。
嫩桂正栄は、無本覚心の高弟で間違い無いと思います。
弧峰覚明と並ぶ人物です。
曹洞宗の峨山紹碩を、南朝側へ引っぱり込んだのも弧峰覚明のようです。
三代守護土岐頼康は、美濃の強力な南朝勢力、土岐頼兼の残された一族、土岐一族の懐柔策を考え、法灯派に相談していたのではないのでしょうか?
それにしても、法灯派の重鎮を迎えられたものです。
6234 瑞巌寺 mino阿弥 03/19 17:19
建武三年(1336)土岐頼康開基
開山大林善育 南禅寺・建仁寺歴任後瑞巌寺開山
本尊 延命地蔵菩薩
二条良基1320~1371 1346~関白
次男師嗣1356~母は土岐頼康女
三男経嗣1358~ 同 上 一条家に養子
経嗣の次男が一条兼良1402~1482
二条良基の孫、土岐頼康の曾孫
美濃への紀行文「藤川の記」の作者
土佐一条氏ともつながります。
6237 一遍と世阿弥と月菴宗光 maru阿弥 03/21
11:18
世阿弥と月菴宗光がつながりがあるとは、不思議な縁を感じます。
月菴宗光は、河野氏の師
世阿弥は、時衆の名、河野氏一遍のゆかりの名
ともに河野氏とのつながりを見るようです。
ゆづきで能を演じる事は、まんざらはずれてはいない事になりそうです。
観阿弥・世阿弥と、阿弥、阿弥だらけで一遍師匠の弟子ではありませんか。
一遍師匠の弟子達が、室町文化の花を咲かせましたか。
6238 嫩桂正栄の生没年 mino阿弥 03/21 14:40
松山で研究発表されました「歴史伝承フォーラム」のT女史からの情報です。
「厚見郷土史」「濃尾両国通史」によれば
無本覚心 1207~1289
嫩桂正栄 1266~1353 勅諡号 大医禅師
「俗姓を知らず、親しく国師(無本)の記契を受け・・・後、美濃の大桑に庵居し
人事を杜絶すること二十年・・同門の請により紀伊の常興および興国の二寺に歴任す。
正平中土岐氏より正法寺に屈請せられて開堂主持す。栄和尚博通にして篤信、人を
矯むるに薄く、己を責むること厚し、加え国族土岐氏の尊崇を受く・・・
正平八年正月二十一日所在に示化す。世寿八十八。」(大桑は昭慶門院領)
正法寺二代は、法嗣の信仲自敬、別号一心。延文年中、大覚派の月心慶円(定林寺入寺)
などと入明。
その後、信仲の法嗣、梅隠祐常(後村上天皇の皇子惟成親王)が在籍。
河野通高が頼ったのは、法嗣の信仲やもしれません。
しかし、南朝の皇子まで正法寺に在籍していたとは驚きです。
阿弥号を持つ者、すべてを時宗帰依者と考えるべきではないそうですが
阿弥号は義満時代の所産にして義持時代までの将軍周辺役者のステータスシンボルと
いう説もあるようです。
6239 一遍、河野通有ゆかりの嫩桂正栄
maru阿弥 03/21
15:50
おー、出ましたねー
南朝の皇子を土岐氏の中心に招くとは、南朝側も手が出せませんね
なかなかに、やるものです。
1266~1353でしたか。
峰翁祖一とほぼ、同年を生きられていたのですね。
ということは、河野通有とも面識が有り
一遍とも面識があったかもしれません。
一遍と、無本覚心の出会いの名場面は、嫩桂正栄がかかわっていた可能性も
想像されます。
嫩桂正栄、一遍、河野通有ゆかりの人物で
美濃・土岐氏に南朝の風を吹き込んだ人物ですか。
なかなかに、すごい方のようです。
6240 推測ですが mino阿弥 03/21 16:45
これは、岐阜市椿洞の了義寺(後醍醐天皇皇子無文元選開山、河野伊予守通村建立)
を中心として南朝の敗残の人々が多数落居していたのではないかと想像されます。
(大桑の昭慶門院領から椿洞にかけて)
その勢力をけん制するためにも、後村上天皇の皇子が土岐頼康の隣に居たとすれば。
ご指摘の如く美濃では南北融和を考慮した上でのことではないかと思います。
土岐頼康開基の瑞巌寺も南禅寺、建仁寺にいた大林善育が開山しています。
無文元選は、興国元年(1340)、建仁寺普光庵で出家されています。
なんだか全部つながっているようです。
しかし、土岐頼康の融和政策が、没したあとに足利義満のターゲットとなり
「康行の乱」を生じることとなり、土岐氏の勢力が削がれた一因にもなった
のではないかとも考えられます
前記の誤「濃尾両国通史」・・正「濃飛両国通史」
6241 無文元選の禅定力のおかげ maru阿弥 03/22
16:25
そうですねー
土岐氏のあとは、山名氏、大内氏も義満にやられていますね。
山名氏、大内氏も、南朝勢力に味方していた時期が長く、
南朝勢力との裏ネットワークを持っていたのかもしれません。
調べてみると、面白い事が出て来るやも。
大体、無益な戦をしないほうが国力は充実して来ますから
義満には目障りな存在になってきたのでしょうか。
河野氏の南朝勢力も、美濃の了義寺周辺で休息する事ができたのでしょう。
嫩桂正栄や無文元選の禅定力のおかげであります。
6251 宗良親王と無文元選の連絡ルート?
maru阿弥 03/25
16:31
信州・大鹿の宗良親王と
了義寺の無文元選を結ぶルート上に
峰翁祖一ゆかりの恵那・大円寺が見られます。
大円寺は、建武の創建、南朝ゆかりの遠山三郎の名も出て参り
遠山三郎は、宗良親王を補佐したとも伝わっておりますが。
宗良親王と無文元選の連絡ルートに
禅僧の南北フリーパスが有効に働いた気もしてきました。
当時の禅僧は、怨親平等の思想ですから、南北交流自由自在です。