談話室ゆづき 宗教関連投稿(2008年分)
6301 美濃革手城と正法寺はどこに? 呑舟 04/07 08:04
「川手城と正法寺は、岐阜市薬師町と正法寺町があり、現在の済美高校の校庭の
中に「川手城跡」の石碑がありますが、実は特定されておりません。」とmino阿弥氏の返答でしたが、ならどこにあるのでしょう?調べてみますと1353年頼康が長森から移り来て革手城を築いた時、鬼門除けに建立した
「閻魔堂」なるものが岐阜市下川手にあるよし(現岐阜市領下1-7-1)土岐頼康が1368年に自ら刻んだと言われる大王像を祭り歴代土岐氏に手厚く保護された。
斉藤道三の攻略により土岐氏は滅び、革手城は廃城、寺領は没収となり、現在は場所は
確定できなくなったもよう。しかるに「閻魔堂」は土岐頼芸・斉藤道三の家臣 加藤左太郎に引き継がれ現在も末裔により敷地の一角に祀られています。
1600年に「閻魔堂」は西軍織田信秀と東軍池田長政との「乱闘橋の交戦」で焼失しますが再建されます。位置はほぼ変わっていないもよう。
であるなら、鬼門除けとして「閻魔堂」を建てたのであるから・鬼門の方角を逆にたどれば革手城に達することになる。
市販の地図を見ると革手城跡とされる済美高校の校門あたりは方角的には外れてしまう。
逆算してみると済美高校より約300から500M南がその位置に当たります。荒田川と旧木曽川(美濃と尾張の境だったので境川と呼ばれる)に挟まれた天然の要害として革手城は築城されたと思われる。
街道筋からすると北に東西方向に中仙道が走り、南北に笠松街道が走り北東に往還道が
走る「往還南地蔵堂」の南、すなわち現下革手口あたりが中心と想定される。当時の
交通の要所でもある。私は付近の正福寺が革手城の城域の一角に建っているのではないかと推定している。
「正福寺」は岐阜市重要文化財の「禁制制札」の1582年11月と12月の2枚の高札を
伝える寺として地元では有名です。これは織田信雄(のぶかつ)の出したもので、
文書で来たのを制札したものです。高札を掲げる所は一番の中心地であろうと思われるので、正福寺あたりが革手城の正門
辺りの可能性が高い。土岐文書に確か「革手城の北に正法寺はあり」と書かれていたと思うので、私の推定が
正しいならば、革手城跡とされる済美高校の場所が逆に正法寺跡で町名の由来も頷けます。如何なものでしょうか?
6302 そうですね mino阿弥 04/07 09:47
ご推察の通りであると思います。
しかし、現実には、そのような石碑が立っています。
林春樹氏という古城研究者がおられ、確か「岐阜の城」といった大著があります。
私も、所蔵していますが、岐阜の各地の城を詳細に研究された貴重な本ですが
記述内容の出典などが、もうひとつわからず残念なところもあります。もっと積極的に調査してほしいという希望も込めて「実は特定されていない」
と書きましたが、これはあくまでも私の主観であって、そうではないという
意見もあると思います。普通に考えると呑舟様の推定が、正しいと思いますが現実に、そのようなところに
石碑が建っているということが問題であり、これについて安易に特定した姿勢が
どうかということを指摘したまでです。私の知らないことも、ご研究されておられ驚きました。
正法寺は、「舟田の乱」(1495)で焼失したのではないかと、つい最近まで
思っていましたが永禄七年(1564)または十年頃、信長によって焼亡したようです。
(梅花無尽蔵・・戦乱のみで焼失を記録していない)
永正元年(1504)春岳寿崇(斎藤妙純の弟)が春蘭寿崇と改名し永正四年二月十四日
鎌倉の「禅興寺」(十刹)の公帖を受け・・・(厚見郷土史など)岐阜は「信長」一辺倒で、一部の方を除いて土岐氏研究についてはあまり熱心では
ありません。
現代でも、信長とともに移住してきた人達と、信長以前から住んでいた人達の
目に見えぬ垣根があるようにも思われます。
呑舟様のような方が、大勢岐阜におられれば、もう少し状況も変わると思いますが。
6304 いやはや・・・ 呑舟 04/07 14:17
「史跡 正法寺跡」と「史跡川手城跡」は石碑が立ってますからそう思いこむでしょうね。どちらも同じ「手」のように見えるので同 時期に近代になって市の教育委員会があたりが建てたのでしょうね。あまり考証をしたとは思われない。史料をあまり検証せずに、まずは立てることに意味が あったのでしょうね。
山の中ならいざ知らず街中ですから、調べれば古い絵図や縄張り、記録が出てくると思いますが、立てたときの責任者の文化度の違いですかね。
革手城は革手府とも呼ばれていたそうですから結構広い地域に城や一説に七堂伽藍の正法寺や源氏の守護神「八幡神社」始めとする社寺仏閣、数多く平屋建築、 城郭というより御殿風(都風)の町並みであったそうですね。
応仁の乱の戦禍をさけ都から公家・百官・天上人まで寄宿した革手は詩歌・蹴鞠・能楽の都文化が花咲きまさに東の京都の風情であったもようです。
同様に都風に町作りをした西の大内氏の山口と比較されます。山口県文書館は雪舟が美濃革手に行ったのは大内氏の密命を受けて当時の情報収集のためと見てお り、中国旅行の土産話をしに行ったわけではないと見ています。
山口市は当時の町並みはいろんな記録によりほとんど分かっています。
岐阜市や県や国になにも残ってないのでしょうかね?いざとなれば掘ればある程度わかると思うのですが。斉藤道三や織田信長により破壊されてますし、後から来た人たちにより現在まで続いていると思われるので 土岐氏ゆかりのものは軽視されているのでしょうね。
金華山の麓の歴史博物館は土岐関係はほとんどなく、ボランティアのガイドは土岐関係の質問しても一様に「私は分からない」との返事が今の岐阜市・岐阜県の 実態なのでしょうね。
正法寺は船田の乱(1495)で被害は受けるが、その後永禄4年(1561)兵火にかかり
焼失し、慶長年間(1600)に加納城築城のため寺域内の土石が革手城の土石と併せ悉く家康により持ち出されたと伝えられています。となると今の加納城の 土石は革手城や正法寺の
リサイクル品で出来ていることになりますのでヒントが残ってませんかね。
6306 人がいないということにつきると思いま す mino阿弥 04/07 16:20
とにかく、人がいないということにつきると思います。
横山住雄氏の土岐頼武問題も、過去にこの投稿欄でも書かせて頂きましたが
横山氏には過去に「土岐頼武は出家して恵胤と号した」とする小論文があり
岐阜県史なども、土岐頼武を守護としています。
しかし、この土岐頼武は恵胤ではありません。
「続史料大成21」後奈良天皇宸記 天文五年六月二十日には
「去年濃州守護恵胤出家名也・・・」
蘭麝待の切り取りの御礼として鴈五、蛸一折、煎海鼠一折二十荷代千疋進上
したとありますが、これは能登畠山氏のことです。
美濃は山国で、蛸も海鼠もとれません
能州を濃州と書き誤った史料であり、もう少し慎重な研究が必要であろうと思います。
こんな誤った論文をもとに岐阜県史などは、土岐頼武を守護と書き替えています。また、ご指摘のように土岐頼康の時代には、美濃において最も文化が花開いた時期であろうと
思います。これを全部捨てて、「信長、信長」と言っているわけで行政の見識を疑わざるをえません。
残念ですが現状です。
「美濃明細記」には、正法寺は信長の放火により永禄四年焼失したと書かれています。
斎藤義龍は、永禄四年五月11日に卒去し、信長は、美濃の動揺に乗じて
五月十三日に美濃へ攻めてきています。
永禄四年は、森部合戦が、比較的大きな戦いであり、安八郡森部、墨俣地区が
主戦場であったように思われます。
この頃は、まだ斎藤義龍の軍勢も統率がとれており、かろうじて信長の軍勢を
阻止できたようで、確実なことはわかりませんが、川手の正法寺あたりには
まだ、侵攻していなかったのではないかと思います。
正法寺は、土岐氏が去ったあと頽廃していたとは思いますが。
永禄五年には、軽海合戦もあり、毎年のように信長は、美濃へ侵攻しています。
永禄六年にも戦いがありますが、河野島(現川島町)近辺からの侵攻は、この頃
であったのではないかと思います。
岐阜城落城説も永禄七年と十年説があり、長く論争がありましたが十年説に
ほぼ、落ち着いているようです。
いずれにしても、斎藤義龍卒去後、数年にして美濃の軍勢に緩みが生じ
信長に侵攻されたことと思います。
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