談話室ゆづき 宗教関連投稿(2008年分)
6300 伊予守護・河野通盛の南朝融和策 maru阿弥 04/06 15:51
河野通盛が伊予守護となられた年代は、必ず南朝勢力の盛んな時期にあたります。
南朝が衰えて来ると、河野通盛は守護職をはずされています。
後醍醐天皇が亡くなるまでと、観応の擾乱の時、この二度だけが河野通盛に伊予守護が回って来ています。他は岩松氏と細川氏が伊予守護。
河野通盛もこのことはよく分かっていたようで、南朝勢力との消耗戦は避けたようです。
南朝と本気になって戦って、南朝を伊予から追い出した場合、次は河野通盛に災難がふりかかって参ります。南朝が伊予に居てこその、河野通盛、南朝が居なく なれば河野氏は用済となり、伊予守護は回って来なくなります。河野通盛の南朝融和策と見られる動きが1345年頃に見られます。
大通寺に峰翁祖一を招いた事であります。以前はたんに禅僧を招いたとしか見えませんでしたが、峰翁祖一の大応派をよく調べてみますと、大応派を高く評価し たのは、後醍醐天皇でありました。峰翁祖一が美濃に開いた大円寺も、後醍醐天皇御墨付きと高く評価されていたことでしょう。
その峰翁祖一の大応派や大徳寺、妙心寺を評価しなかったのが、足利武家政権でありました。
評価しないどころか最下格まで落としています。五山を外される。
足利武家政権に高く評価されたのは、夢想疎石の派であります。その足利政権に評価されなかった峰翁祖一を、通盛はわざわざ美濃の奥地から招かれています。
河野通盛が足利政権を通そうとしたばあい、なんらメリットはありません。
峰翁祖一を伊予に招くメリットは何か?
南朝の融和策です。河野氏を存続させるためには、南朝勢力には居てもらわなくてはなりません。南朝勢力が居なくなると、河野氏の存続が危なくなります。そこへ、後醍醐天皇が高く評価された大応派の峰翁祖一が招かれ、伊予の南朝勢力との掛け橋になられたか。
20年後には、大通寺横の恵良城から孫の通尭を救い出す場所となるのですが。
河野通盛は、先を見通されていたようであります。
6303 さすがですね mino阿弥 04/07 13:27
さすがに読みが深いと思います。
私などは、なかなかそこまで思い至りません。
土岐氏は、多治見の永保寺など夢窓国師とも深く関わっていますので、うまく
バランスをとっていたのかもしれません。妙心寺の現在の規模は、守護代斎藤利国の妻利貞尼が寄進したものです。
開山の関山慧玄も美濃加茂の井深で修行していた方であり
美濃とは深い関係があります。
中興とされる日峰宗瞬も無文元選禅師に参禅したり、美濃尾張に近い方です。
代々の住持も美濃出身者が多く、考えてみれば美濃近辺は、妙心寺派には
もっとも好意的な土地柄であると言えます。
峰翁祖一の大円寺は、後世の住持希庵玄密が武田信玄に殺され滅亡しましたが
希庵玄密は、妙心寺住持であった高僧です。
根尾谷に脇屋氏が拠ったということも、もともと美濃は南朝よりの人々が
多かったのではないかと思われます。
6312 土岐氏は、後醍醐天皇の側近中の側近 maru阿弥 04/08 18:58
美濃の土岐氏は、日野氏とならび後醍醐天皇の側近中の側近。
南北朝の動乱を開かれていますから、美濃には南朝の方々の残存勢力がかなり多かったのではないでしょうか。
土岐頼兼、多治見国長、土岐頼員、足助重範、蒼々たるメンバーがおられますが。あの北朝一の武勇を伝える土岐頼遠でさえ、北朝の院が犬に見えたと伝わっておりますが。
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